経営に役立つコラム
【賢者の視座】ダイヤ精機株式会社 諏訪 貴子
経営改革はスピード感が命。
社員が一致団結することが飛躍につながる。
ダイヤ精機株式会社
諏訪 貴子
普通の専業主婦がある日突然、町工場の社長になる――
ダイヤ精機株式会社の諏訪貴子社長はそんな驚くべき転身にチャレンジし、経営改革に成功した人物だ。既存の経営者にはない発想で中小企業共通の難題に向き合ってきた諏訪社長に、事業承継や人材採用の成功の秘訣を伺った。
一見すると昭和の香りが漂う小さな町工場。実は、国内でも数少ない自動車部品用ゲージの超精密加工技術を持つ企業。それがダイヤ精機株式会社だ。2004年、諏訪貴子社長は創業者である父の急逝を受け、32歳にして主婦からいきなり同社の社長に就任した。
諏訪社長は大学の工学部を卒業し、自動車部品メーカーでエンジニアとして2年間勤務後、結婚退職。その後2度、父に請われて社員として同社に入社し、バブル崩壊後の売上減に苦しむ父に人員リストラによる企業再生案を提案。2度とも拒否され、自身がリストラされてしまった経歴を持つ。父の急逝後もまさか自分が社長になるとは夢にも思わず、幹部社員から就任を懇願されたときは悩みに悩んだという。
「それまでの私の人生は父が望む工学部に進学し、ダイヤ精機の取引先である部品メーカーに就職するなど、親からアドバイスを受けて決めることが多かったんです。社長就任の際もいろいろな人に相談しましたが、誰も“なれ”とも“なるな”とも言わない。社長になるのはそれほどものすごい決断なんだ。一度なるともう後戻りはできない、と覚悟を決めました。その後は“相談”ではなく、私が“こうしたい”と思うことをかなえてくれる人たちを探し続けました」
こうして2代目となった諏訪社長だが、直後から嵐のような日々が始まった。就任報告に出向いたメインバンクでは、「おまえが社長?大丈夫なのか?」と支店長に言われ、大げんかに。数日後、身売り話を持ちかけてきた支店長に「半年で結果を出す」と啖呵を切り、経営改革に着手した。
「実はメインバンクとの大げんかは、私にとって宝物なんですよ(笑)。むしろキレるタイミングを窺っていたほどです。当時32歳の経営経験ゼロの女性が50歳を超えた支店長にモノ申せたのは、実際、後々の自信につながりました」
あなたたちの底力を見せてくれ
経営改革の最優先課題は2度の入社時に行った分析で明らかだった。売上はバブル期の半分に落ち込んでいるのに、社員数はバブル期と同じ27名。長年の不採算部門の整理なしに経営改革はあり得ない。そう考えてリストラを断行したところ、幹部社員は激怒。社員全員が敵に回った。
「自分が社長になってみてわかりましたが、社員のリストラは想像以上に辛いものです。しかし会社は危機的状況で、急いで経営改革を進めなければなりません。
私は過去に2度リストラに遭い、社長と社員の間には見えない一線があるのだと痛感していましたし、この危機的状況は逆に利用できると考えました。つまり、社員を敵に回すことで、“あなたたちの底力を見せてくれ”というスタンスが取れたんです」
社長が替われば、当然会社も変わる。そのため事業承継後の経営改革では、まず社員の意識の一新を急ぐ必要がある。ここは一刻も早く、「新社長になってダイヤ精機は生まれ変わった」「自分たちは新生ダイヤなんだ」という意識付けをしなければならない。
「人間は切羽詰まったときに一致団結しやすいもの。それに改革は間延びすると、ただの改善になってしまいます。スピード感を持って実行すれば早く結果が出て、結果がよければよいほど達成感や一体感も大きくなる。とにかくスピード感が命でしたね」
プライドは不要。まず人に聞け
就任1年目を「意識改革の年」と名付けた諏訪社長は、あいさつや5S運動を徹底させ、作業の効率化を図った。当時少数派だった若手社員も意見が言えるよう、少人数のQCサークルを立ち上げ、会社と社長に業務改善を提案する通称「悪口会議」をスタート。ここから若手主体の改革案が次々に生まれるようになった。
一方、経営そのものは初めてなので、経理の基礎もバランスシートの読み方もわからない。そこでわからないことはすぐに経理部の社員に質問し、一から教えてもらいながらコミュニケーションを深めていったという。
「社長というプライドを捨てて社員さんに聞くことは、恥ずかしいことでもなんでもありません。32歳という若さがあったからできたのかもしれませんが、わからないことは人に聞くのがいちばん早いです。無知ほど怖いものはないと、就任前後に身に沁みていましたから」
「人に聞く」姿勢は、営業面でも発揮された。諏訪社長は現在も新規開拓営業を担当し、父の代から続く取引先以外にも多方面の開拓に成功しているが、その過程でこんな出来事があった。
あるときSWOT分析を試み、自社の強みを懸命に考えたが、どうもよくわからない。そこで取引先の担当者に「どうして当社に発注してくださるんですか?」とストレートに質問したところ、相手は笑いながら「対応力」と答えてくれたという。諏訪社長にとって、この答えはとても参考になるものだった。
これまで取引のなかった大手企業に単身飛び込み営業したときも、思わぬ収穫があった。その場での受注こそなかったが、「大型ゲージができる会社は日本に5社しか存在しない。おたくはその1社だよ」という言葉をかけられたのだ。
「これは売り文句になる!と思いました。当社では昔から当たり前のように大型ゲージを製作していたので、そんなにすごい技術とは誰も知らなかったんです(笑)。自分たちがすごいと思っていなかった技術が、実はすごいのだとわかり、以来営業先でも社内でも言い続けています」
技能を継承しつつ若手主体の町工場へ
さらに町工場の課題である職人の高齢化対策にも着手。若手社員を増やすため、若者を意識して会社パンフレットやHPを制作。インターンシップを積極的に行ったり、職業訓練校に自ら出向いて目ぼしい人材に声をかけるなど、ありとあらゆる方法を試してみた。さらにハローワークからの紹介がないときは、求職者を装ってハローワークを訪問。
求人情報提供端末をあれこれ試し、企業検索に引っかかりやすい求人票の出し方を検討した。
「人材採用に正解はありません。でも問題には必ず原因があり、原因を潰さない限り問題は解決しない。当社のような中小企業は社長自ら動かないと、すべての事柄が進まないと思います」
社長就任4年目には、これまで「経験者のみ」に限定していた求人を「未経験者OK」へと舵を切った。かなりの冒険だったが、ダイヤ精機のやり方だけを知る人材は今ある環境を素直に受け入れ、むしろ定着率が高い。
「未経験者1期生は今も当社で働き続け、副工場長になるまでに成長しています。会社に若い人がいれば、次の若い人を呼び寄せてくれる。おかげで今では技術継承に成功し、若手社員が多い町工場ということで、大手企業からお声がかかることも増えました」
一方で定年を70歳まで延長。70歳を過ぎても、本人が希望すれば、いつまでも働き続けられる体制を整えた。現在の最高齢は76歳。愛社精神のお手本となる、大切な存在だという。
承継時の混乱期を乗り越え、業績回復と人材育成まで成功させた諏訪社長は今、講演会で自らの体験を語り続けている。とくに事業承継に関しては、ドラマチックな体験が著書になりドラマ化もされたため、説得力が違う。
「事業承継には準備が必要です。国も相続税や贈与税の減免制度をはじめましたが、事前に事業承継計画書の提出と認定が必須なんです。少しでも早めに着手していただければ、私のように苦労される方も減るはずです(笑)」
現在、諏訪社長は父から受け継いだ町工場以外に新規事業をスタートさせ、新会社を設立したところだ。「15年目にして、ようやくスタートラインに立てた」と起業の意義を語る。
「創業者はインスピレーションの強い方が多いですが、2代目3代目はインスピレーション不足を補うため、理論をガチガチに固めて守りに入りがちです。この感覚の差は一体なにか。ずっと疑問に思っていたので、自ら創業してみることにしました。インスピレーションあふれる創業社長の皆さんは、ぜひ早めに2代目に事業を譲り、新たに起業されてみてはいかがでしょうか。未経験者が起業されるより余程リスクが少なく、日本経済の活性化にも貢献できるはずです」
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ダイヤ精機株式会社
代表取締役社長 諏訪 貴子
1971年、東京都生まれ。1995年、成蹊大学工学部卒業後、自動車部品メーカーのユニシアジェックス(現・日立オートモーティブシステムズ)にエンジニアとして入社。1998年と2000年に父に請われダイヤ精機に入社するが、いずれも経営方針の違いからリストラに遭う。2004年、父の急逝に伴い、社長に就任。経営再建に着手し、10年で同社を全国から視察者が来るほどの優良企業に再生させた。日経ウーマン「2013ウーマン・オブ・ザ・イヤー」大賞受賞。著書に『町工場の娘』『ザ・町工場』(いずれも日経BP社)があり、NHKでもTVドラマ化された。