経営に役立つコラム

【賢者の視座】タビオ株式会社 越智 直正

お客さまへ「Made in Japan」の高品質な靴下を届けたい。

靴下に賭けた人生と夢が、業界唯一の勝ち組企業を創りあげた。

タビオ株式会社 越智 直正

割安な海外製の靴下があふれる中、「Made in Japan」の高品質な靴下を企画・販売し続ける企業がタビオ株式会社である。創業者は現・代表取締役会長の越智直正氏、76歳。
丁稚奉公から身を興し、靴下ひと筋に商売の荒波をくぐり抜けてきた熟練の経営者に成功の秘訣を伺った。

タビオ株式会社 越智 直正

今や日本各地のショッピングセンターで看板を目にするようになった『靴下屋』。国内では約290店舗を展開。2002年以降ロンドン、パリに出店し、「Made in Japan」の品質を海外の人々にも提供している。その『靴下屋』を運営するのがタビオ株式会社だ。

創業者の越智直正会長が大阪の靴下問屋に就職したのは1955年、15歳のとき。「10年で独立したい」と考えていたが、なかなか勤務先の社長の許しが出ず、ようやく独立の機会が訪れたのは13年目のこと。社長からあらぬ疑いをかけられ、思わず「辞めさせてもらいます!」と宣言してのことだった。その日の夜には住み込みで働いていた部下2人も会社を追い出され、越智会長の自宅で同居することに。当時はほとんどの日本人が貧しい時代。越智会長は6畳一間の間借りで新婚生活を送っていたのだが、そこで新婚の妻を含めて4人で寝起きする生活がしばらく続いたという。

準備ができない状況での突然の独立で、起業後は資金繰りの苦労の連続。金融機関はもちろん、友人知人に借りるのも日常茶飯事。しかし、必ず期日を守って返済し、資金繰りに困るとまた借りに行くことを繰り返したという。「借金の成功確率は90%。もちろん借りた金は必ず返す。必ず約束は守る。借りるときは決して卑下しないこと。卑下したら次から貸してくれなくなる。だから私は元気いっぱい、堂々と借りに行きましたよ(笑)」

後年、事業が軌道に乗り、友人知人から借金する必要がなくなった頃、越智会長はある知人に「なぜあのとき、私に金を貸してくださったんですか?」と質問したことがある。すると知人はこう答えた。「不思議やなぁ。あんたに貸すとき、全く不安を感じなかった。今思えば不安やけどな(笑)」

苦しい資金繰りはその後も数年続いた。しかし、越智会長はそれを苦労と感じなかったという。「苦労というのはなにかに夢中になっていたら感じないもの。今日中に500万円調達しないといけないとき、苦労を感じている時間なんてありますか?当時の私は苦労を感じるヒマもなかった。感じるようでは苦労とは言えません」

売れ筋予測不可能という業界の難題に挑む

タビオ株式会社 越智 直正

創業直後、タビオ(当時の商号は「ダン」)が扱う商品は工場で作った既製品を買い集めたもので、経費を切りつめてもほとんど利益が出なかった。「やはり自社企画製品を開発しなければ」と考えた越智会長は靴下工場を回って取引を頼み続けたが、資金も実績もないタビオはなかなか相手にされない。それでも2点3点と少しずつ自社企画商品を増やしていったが、「売れ筋予測が不可能」という業界の難題がつねに立ちはだかった。

「来年売れるのはどの色?どの柄?どのスタイル?何十年靴下に携わっても、自社データや業界データを収集・分析しても、この予測は不可能です。期末になると余るか足りないかのどちらか。生産数と販売数が一致した商品など、この世に存在しませんでした」しかも靴下は売れ筋商品のフォローが命。店頭で売れた分だけ補充しなければならないが、当時はコンピュータもない時代。遠方の客先から取引を持ちかけられ、飛び上がるほど喜んだものの、在庫確認のための交通費がどうにも工面できない。
そこで越智会長が考案したのが、靴下1枚1枚にカードをつけた「カードシステム」。書店のレジで店員が書籍に挟まれたカードを抜いているのを見て、思いついたアイディアだった。小売店はタビオの靴下が売れるたびにカードを外し、まとめてタビオに送り返す。この販売管理の仕組みは評判を呼び、得意先がどんどん増えていった。しかし肝心の生産体制で工場の協力が思うように得られず、頑張れば頑張るほど資金繰りが悪化の一途に。1973年にはついに借金総額が7000万円に膨れ上がっていた。「さすがに絶望感に囚われましたよ。当時、2400万円の生命保険に加入していたので、これで多少の返済はできると、覚悟を決めて遺書を書きました」

腹をくくった越智会長は、当時関西で名うての経営者として知られていたディベロッパー「ヤマトー」の藤原敏夫社長のもとへあいさつに訪れた。藤原社長は越智会長の借金総額を聞き、「なんやて?!おまえ、やり手やなぁ!」と大声を挙げて驚いたという。「俺はこのショッピングセンターを建てる3億円を、家やら土地やら担保に入れてやっと借りることができた。なにも持ってへんおまえがなんで7000万円も借りれるんや?!」

藤原社長のこの言葉は越智会長にとって目からウロコだった。それまで「史上最悪の経営者」と思っていた自分が、視点を変えれば「やり手」に見える。あきらめるのはまだ早い。そこから夜も寝ないで借金に駆け回り、集めた330万円を持って信用金庫へ。その場で支店長を説得し、倒産の危機を回避できた。

それにしても、いつになったら「売れ筋予測が不可能」という業界のジレンマから脱却できるのか。かろうじて倒産の危機を乗り越えた越智会長が当時の財務担当者に相談したところ、「売れるモノを売れるだけ作ればいい」という至極当たり前の答えが返ってきた。そもそもそれができれば苦労はないが、いったいどうすればよいのか?――その後も越智会長は考え続けることになる。

どんなシステムも人の力なくして創れない

転機が訪れたのはその2年後。越智会長はPOSレジシステムを知る。これなら店舗と担当工場をコンピュータシステムでつなぐことで生産と販売を同時進行させることができる。もちろん課題もあった。端末機などのハードウェアとソフトウェアを導入する費用は億単位。工場から新台の編み機を10台近く購入できる金額だと、猛反発を受けたという。さらに工場により異なる生産工程や取引先の糸商なども統一しなければならず、毎晩のように細かな部分まで打ち合わせを重ねていった。一方、小売店もまだPOSレジに抵抗がある時代で、導入コストを敬遠した。しかし、越智会長は「品切れや売れ残りをなくせば、その程度の経費は充分取り戻せる」と説得。何度も説明会を開き、最終的に関係企業全社を集めて衆議を一決した。このときタビオが創りあげた生産販売一体型ネットワークシステムは評判を呼び、IT業界の賞を数多く受賞。海外からも見学者が相次いだ。システムの立ち上げから20年以上経過した今も、同様のシステムを実現したアパレル企業は存在しないという。

「なぜ他社ができないことを当社はできたのか?それは工場と僕の間に信頼関係があったから。結局、商売はそこなんですよ。実際のところ、このシステムでいちばん大変なのは工場なんです。POSデータが瞬時に入って来ることで工場は24時間稼動状態となり、工場長自ら下請け業者を走り回ることもある。こうした協力者の力がなければ、どんなシステムもうまくいかない。人の力なしに、どんなシステムも創れるわけがありません」

靴下は私の夢。今も理想の靴下を追求。

今やタビオは数少ない「Made in Japan」の靴下を企画・販売できる企業として、国内に競合企業が見当たらない。あくまでも品質にこだわった「お客さまの足にやさしい靴下」を提供する企業へと成長した。6畳一間からスタートした会社が大阪の一等地の高層ビルに本社を構えるようになり、2000年には大阪証券取引所2部に上場。人・モノ・金も以前とは比較にならないほど簡単に集められるようになった。「でもね、商売は我欲でやってはいけない。僕は創業当初の苦しい時期、信じてついて来てくれた2人の部下のために頑張れた。今はここまで育ててくれた靴下業界の未来を考えています。靴下は僕の夢。60年以上靴下のことばかり考えてきたのに、いまだに最高の靴下を創り上げていない。理想の靴下とはね、人の皮膚のように履いた感覚のない靴下ですよ。その感覚を追い求めて、普段から僕は素足で過ごしています。夢は未だかなわずですが、まだわからんよ。あと2~30年は頑張るつもりだから(笑)」

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タビオ株式会社
代表取締役会長 越智 直正

1939年愛媛県生まれ。中学卒業後、大阪の靴下問屋に丁稚奉公。以来、靴下ひと筋の人生を歩む。1968年、独立して靴下卸売業ダン(現・タビオ株式会社)を創業。2000年、大阪証券取引所2部に靴下専業企業として上場を果たし、靴下の企画・卸・小売で業界トップの座に就く。2006年、商号を「ダン」から「タビオ」へ変更。2008年、代表取締役会長に就任。主な著書に『男児志を立つ』『仕事に生かす孫子』(いずれも致知出版社)がある。