経営に役立つコラム
【賢者の視座】メーカーズシャツ鎌倉株式会社 貞末 良雄
企業経営に完成形はない。
事業が順調に見えるときこそ次の手を打ち、
顧客の変化の兆しを把握せよ。
メーカーズシャツ鎌倉株式会社 貞末 良雄
長く続くアパレル業界の商慣行を打ち破り、成長し続けている企業がある。それが“鎌倉シャツ”の愛称で親しまれる、メーカーズシャツ鎌倉だ。確固たる商哲学を持つことで知られる同社の貞末良雄会長に、独自のビジネスモデル構築の経緯や、企業を持続的に発展させる極意を伺った。
53歳にして鎌倉シャツを創業
同業者も認める品質の高さと、一度袖を通せば病みつきになる着心地の良さ。鎌倉シャツが製造・販売する製品は、すべてメイド・イン・ジャパン。世界最高レベルの縫製技術を持つ日本の縫製工場が製造したシャツは、卸業者を経由せずに鎌倉シャツへ直接納品され、各店舗で販売される。
創業者で現・取締役会長の貞末良雄氏は、江戸時代から続く商家の出身。大学卒業後、ヴァンヂャケットに入社し、営業・販売・物流・商品企画などさまざまな職務を経験したが、37歳のとき会社が倒産。その後、アパレル数社を経て、53歳にして鎌倉シャツを創業した。
第1号店はコンビニエンス・ストアの2階を借りて、内装をDIYした質素なものだった。ただし、提供する商品は「誰もが驚くほど上質なシャツ」のみ。百貨店なら間違いなく15000円以上で販売されるシャツを、同社は均一4900円(税抜)に価格設定。2014年10月に5000円(税抜)に改定するまで、この価格を守り続けた。「鎌倉シャツの企業テーマは、売上の増大ではなく顧客の増加です。4900円という価格も、“私が顧客なら間違いなく飛びつくぞ”と考えて設定しました」
貞末氏の狙いどおり、高品質・低価格のシャツは評判を呼び、口コミを通じて徐々に顧客が増えていった。当面は損を覚悟の起業だったが、創業2年目に横浜ランドマークタワーで2号店を出店。その頃から、商売も軌道に乗った。
業界に新たなビジネスモデルを構築
そもそも、なぜ鎌倉シャツは高品質のシャツを低価格で販売することができたのか?そこには貞末氏が長年思い描いていた新しいビジネスモデルの存在があった。
アパレルの小売業者は1社だけで生産ロットがまかなえないため、製造業者と直接取引することが難しい。そこで資金力のある卸業者が中間に入り、生地を買い付け、縫製工場に製造を依頼する。この中間業者の仕入れコストに対する占有率は6割に達し、結果的に製品価格を押し上げていた。「中間業者が存在する限り、お客様が喜ぶ価格にはとても到達できません。売り手側の理由やリスクヘッジで価格が跳ね上がり、そのツケをお客様に回すのは間違っているのではないか?長年、アパレル業界で感じてきたこの問題を解決するため、私は縫製工場との直接取引を決意しました」
ところが、わずか16坪の小売店が縫製工場に発注をかけようとしても、まるで相手にしてもらえない。工場にすれば、同じ糸・生地・型紙で何百枚と生産しなければ生産性を維持できない。1日2~3枚しか売れない当時の鎌倉シャツの規模を考えれば、当然の拒否だった。「“長いつきあいだけど、おやめなさい。あなたのためだ”と、仕入れ先から何度も言われました。しかし、53歳で起業した私は背水の陣。4900円でお売りすると決めたからには後に引けない。結局、自宅を担保にお金を借り、3500枚を発注しました。当初は3年分ぐらいの商品を一気に買い付けていましたね」
アパレルに限らず、小売業界には仕入れ値を値切り、支払いを手形で先送りし、売れ残ると返品するという慣習が根強く残っている。縫製工場もまた、1枚1枚高い技術で手づくりしたシャツを小売業バイヤーから買い叩かれ、支払いを先延ばしにされるケースが少なくない。そこで貞末氏は、「仕入れ先の利益や立場を重視し、必要以上の価格交渉をしない」という、業界の常識を覆す行動に出た。
「世の中には買い手有利な商慣習がはびこっていますが、よい商品を安く仕入れるには値切らないことです。それに商売には、“売る”と“買う”しかありません。“返す”“預かる”“支払わない”なんて、商いとは言えません。ですから私は創業以来、全品買取・現金支払いを貫き、1円の端数も丸めず、翌月きっちり現金でお支払いし続けています」
こうした鎌倉シャツの評判は、仕入れ先の工場から燎原の火の如く広まっていった。噂を聞きつけた別の仕入れ先が次々に同社を訪れるようになり、一流の仕入れ先と取引ができるようになるまで、さほど時間はかからなかったという。「営業に来てくださる仕入れ先企業には、こんなお願いをしました。“ウチは集金の手間がかからない小売業者です。ですから、その分情報を持ってきてください”」
次の売れ筋はどんな色なのか。どんなデザインなのか。一流の仕入れ先は一流の情報を持っている。しかも、情報はすべて無料だ。「当社が実行しているのは、商いの本道です。買ったものにはお金を払う。取引にもお客様にもウソをつかない。当たり前のことを継続するだけで、当社のように小さな会社にも、またたく間に信用がついていきました」
組織とは自然にできあがるもの
創業以来22年。妻とふたりで始めた事業は社員120名になり、2012年にはニューヨーク・マディソン街への海外初出店にも成功した。しかし、決して成長を急ぐことなく、出店ペースは年間2~3店舗。あくまでも顧客本位を旨とし、自然体の事業経営が続く。
貞末氏は会長となった今も社員とデスクを並べ、自らコピーをとり、お茶を淹れる。会長室などもちろん存在せず、社員は彼の背中を見てトップマネジメントを学んでいる。「社員は現場体験により磨かれます。若いカナリアを美しい声で鳴かせるには、美しい声で鳴くカナリアのいる鳥かごに入れるといい。仕事は指示書やマニュアルで覚えるのではありません。諸先輩やトップが日々行動している姿そのものが、すなわちレッスンです」
そしてトップもまた、部下にどんどん仕事を任せ、育てていく。「孫悟空が自らの髪を抜いて息を吹きかけ、分身をたくさんつくって難敵と闘ったように、私も社内に自分の分身をつくることに全力を注いでいます。分身が10人いれば10の仕事を任せられる。すると、私は身軽になって次へと進めます」
つねに「今がいちばんの危機」と考える
実は鎌倉シャツには組織図がない。そのため部署の壁は存在せず、各社員がそれぞれ得意な分野を担当する。「やりたい」と手を挙げた社員には、どんどん仕事を任せるのが貞末流だ。「組織とは、“つくる”ものでなく、自然に“できる”もの。サルの集団に組織図はありませんが、組織的に動いています。それぞれの得意分野を活かしてポジションにつけばいいのであって、年功序列は必要ありません」
では、自然にできあがった組織を持続的に発展させていくにはどうすればよいのか?この問いに対する貞末会長の答えも明快だ。「今がいちばん危機だと思い続けることです。企業経営に完成形はありません。時代とともに人々の価値観は変わり、ベースとなる経済状況も日々刻々と変化します。その中で、自分の会社だけは不動だと考えたときに、その船は沈没します」
貞末会長自身、ヴァンヂャケットをはじめ多くの船に乗ってきただけに言葉の重みが違う。「たまたま予想した以上の売上があったとき、人はほっとするものです。しかし、ひと休みしてダメになった会社を、私はたくさん見てきました。いいときにこそ次の手を打つべきです」
貞末会長によると、次の手が簡単に見つかることはない。だが、必ずどこかに存在する。そこで分身たちに仕事を任せて捻出した時間を使って次の手を考え、現場へ飛び出して行く。「変化の兆しは現場にしかありません。デスクに座っていても感じることはできないし、社長室にいると、もっとわからないでしょう。商いは人々の欲望に対応するもの。欲望の変化を敏感に察知し、対応できる仕組みがなければ会社は滅びます。現場に出て、五感をフルに働かせ、顧客の欲望の変化を感じ取る。そのためにはトップがいちばん流行に敏感で、服が大好きで、食いしん坊で、お金を使うことが好きでなくてはなりません」
変化の兆しを把握したら、経営者は会社の方向性を決定する。ただし、途中で「どうも違うぞ」と感じたら、自らの間違いを素直に認め、すばやく方向転換するべきだという。
2015年10月、鎌倉シャツはニューヨーク最高級のショッピングモールに海外2号店を出店する。エルメスやフェラガモなど海外の錚々たるブランドが並ぶ中、唯一の日本ブランドとして自慢のシャツで勝負に出る。「ニューヨーク2号店が成功すれば、世界の顧客が私たちの会社を評価してくださることになります。創業以来、顧客の増加をテーマに掲げてきた当社が、いよいよ世界規模で顧客の増大に向き合おうとしています。そして、その先の事業展開もすべてお客様次第。お客様のニーズと欲求があるところへ、私たちは鎌倉シャツという船の舳先を向けるだけです」
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メーカーズシャツ鎌倉株式会社
取締役会長 貞末 良雄
1940年山口県生まれ。1966年ヴァンヂャケット入社。同社倒産後、数社のアパレル会社勤務を経て、1993年メーカーズシャツ鎌倉を創業した。現在、東京を中心に日本全国で25店舗を展開。高級シャツの品質にこだわりながら、徹底した流通システムの見直しと中間コストの削減により、ほとんどのメンズ及びレディスシャツを5000円(税抜)の均一価格で販売する。2012年10月ニューヨーク・マディソン街に海外初出店。2015年秋には、ニューヨーク金融街に海外2号店を出店する