経営に役立つコラム

【賢者の視座】株式会社ヤマト屋 正田 誠

中小企業は小さな改善を積み重ねていくほかない。
一つひとつは小さくても、蓄積すれば大きな改善になる。

株式会社ヤマト屋
正田 誠

東京の下町で1892年に創業された女性用ファッションバッグの老舗・株式会社ヤマト屋。
代表取締役社長の正田誠氏は4代目社長として業務改善や商品改革に果敢に取り組み、成果を挙げ続けている。

時代が変わり、老舗企業も変わる。ぶつかる壁が大きいほど、乗り越えたときの成果も大きい。

株式会社ヤマト屋 正田 誠

ヤマト屋は軽くて水に強く、機能的な女性用ファッションバッグの製造販売元として知られる中小企業だ。東京・下町の典型的な老舗企業にあって、正田誠氏は2008年に社長に就任。130年近く続く老舗とはいえ、その経営の道のりは決して平坦なものではなかった。

同社に大きな転機が訪れたのは2003年。それまで販売の主力だった百貨店での売上下落が止まらなくなり、新たな販路を模索する必要に迫られたのだ。

「かつて百貨店でよく見られた平場のハンドバッグ売場がどんどん縮小され、商店街などの路面店も消えていく一方。このままなにも手を打たなければ、当社も消える。そんな危機感がありました」と、正田社長は振り返る。

当時、正田社長は専務取締役。先代社長の正田喜代松氏が売上半減の事態を打開するため、さまざまな経営者向けセミナーに足を運んだ。そして通信販売卸に強い経営コンサルタントの「これからの時代はBtoCの通信販売だ。ヤマト屋がお客様を裏切らなければ、お客様もヤマト屋を裏切らない」という言葉に衝撃を受け、通信販売への販路拡大を決意。コンサルタントの同行を得て、国内外で営業する日々が続いた。

同じ頃、ヤマト屋は新素材の開拓にも着手していた。それまでバッグ業界では軽い素材にエステル系ポリウレタンを使うことが常識だった。ところが、この素材は空気中の水分を吸って加水分解するため、10年たたずに劣化してしまう。乾燥した気候の欧州ならいいのだが、湿気の多い日本の風土では数年経過すると表面がボロボロになり、お客様から「なんとかならないか」と相談を受けることが多かった。

「当社では経営三本柱のひとつにお客様中心主義を掲げ、“クレームは宝”を合言葉にしています。ところがバッグ素材に関しては、当たり前過ぎてクレームにすらならない状況でした。そこで生地問屋や生地工場と繰り返しサンプルを作り、“これがベスト”と結論が出たのが現在のポリカーボネイト系ポリウレタン。これなら加水分解も起こさず、長く使えることは明白でした」

価格面でも工場の協力を得て、2004年1月に新商品をリリース。新商品といっても、同デザイン・同価格で素材だけが変更になったため、一般顧客には違いが全くわからない大変革だったという。通信販売には、そんな新素材バッグを擁しての参入となった。

「面倒なことはないですか?」本気の質問が改善につながる

ヤマト屋が通信販売へと乗り出したのは、新素材バッグの発売時期と同じ2004年。新素材バッグは機能性の高さから通販雑誌などに大々的に取り上げられ、大口受注へとつながった。売上はV字回復したが、その一方で通販卸会社の要望どおりに1,000本納品したにもかかわらず800本が売れ残り、在庫管理に苦しむ失敗事例もあった。

「通販卸会社は“売れる!”と見るや一気に在庫を欲しがるもの。言われるがままに納品し、潰れたバッグ会社をたくさん見てきました。とくにTVショッピングは諸刃の剣です。当社も徐々に初速を見るテクニックを身につけ、大量ロットのみ要求してくる会社とは取引を控えるようになりました」

株式会社ヤマト屋 正田 誠

通信販売が軌道に乗ると、商品の安定供給のため、生産工場の整備にも力を入れた。ヤマト屋は近隣県に複数の下請け工場を持つが、2011年3月の東日本大震災で茨城県にある主力の3工場が被災。操業不能に陥り、生産量は約3割減に。他の工場をフル回転させても綱渡りの状況だった。

「そこで新しい工場を開拓すると同時に、既存の工場の生産効率向上を目指して、ひたすら工場行脚を続けました」

当然ながら、どの工場のかばん職人も納品先の社長になかなか本音を言うことはない。そこで正田社長は口の重い職人相手に、「うちの仕事でなにか面倒くさいことはないですか?」と尋ねて回った。最初はなにも語ろうとしなかった職人も、1時間も話していると「今度のバッグ、アタリの位置がおかしいんだよね」とボソッと漏らしたりする。アタリとは縫製時の目印のことで、ヤマト屋の位置と職人自身の位置にズレがあり、作業がしづらいという。他にも「無駄なアタリがあり、必要なアタリがない」「縫わなくても充分強度を保てる部分に縫製指示がある」など、次々に作業効率を下げる要素が露わになった。正田社長はこうした情報をすべて会社の企画室に持ち帰り、型紙や縫製指示などの改善につなげていった。

「本当に小さな改善、改善、改善……その繰り返しです。でも、一つひとつは作業効率1%程度の改善でも、20カ所改善すれば20%向上する。積み重ねていけば30%の生産量減もカバーできる。その一念でした」

同時に、現場の職人から吸い上げたノウハウをどんどん新製品に採用し、工賃も少しずつアップさせた。すると職人の間でうわさが広がり、ヤマト屋へ売り込みに来る工場も現れはじめ、工場不足が解消されていったという。

努力ではなく発想を変える「ゆとり創出プログラム」

下請け工場の生産性向上を「ゆとり創出プログラム」と名付けた正田社長は、同様の生産性向上を社内にも展開できるのではないかと考えた。方法論は社外と同じで、社内のスタッフに「作業でやりづらいことはないか?」とこまめに尋ねることを繰り返したのだ。すると、「作業で使うタブレットPCが使いづらい」など、細かな不満が社員から寄せられるようになる。そこで作業中も落とさないようタブレットPCにホルダーを付け、キーボードを後付けしたところ、作業効率が一気に向上した。

さらに意見を言いやすいよう、スタッフには『気づき日報』を義務づけ、正田社長がすべて目を通す。業務改善につながるものは表彰し、賞金も設定。スタッフから寄せられた改善策は、これまでに数千件に上るという。

株式会社ヤマト屋 正田 誠

「中小企業は一つひとつ小さなことを積み重ねていくしかありません。今は“一つひとつの作業が5分の1の時間でできないか考えてみよう”とスタッフに呼びかけています。一見無茶な要求に聞こえますが、5分の1と言われたら、努力だけでは追いつかないから人は発想を変えるしかない。その上で残業を19時までとし、19時以降は申請制にしました。なにも土壌がないところにいきなり“19時までに帰れ”では、サービス残業を増やすだけ。無理な努力は改善にはつながりません」

さらに「ゆとり創出プログラム」はヤマト屋に新しい試みをもたらすことになった。下請け工場の職人と技術面の話を繰り返すうちに、「社内で職人を養成できるのではないか」と考えたのだ。この試みは「量産職人養成プログラム」と名付けられ、1年かけて縫製技術やミシンのかけ方や調整のノウハウなどを教え、1期あたりひとりの職人を養成する。これまでに4期4人の職人を育成。現在も2人がヤマト屋の業務を請け負い、職人不足解消の一手となっている。

「2人ですから生産量は大きくありませんが、品質はつねにトップクラスです。工場の従業員7名で年間売上3,000万円の工場を育てるのが当社の夢。単純作業でパートを雇用しても、充分に食べていける収入です」

モノが売れない時代にこそ精力的なトップセールスを

「小学生の頃から店頭販売を手伝っていた」と語る正田社長は、自らを「ものづくりよりもセールスの社長」と呼ぶ。そのため、自ら全国各地の取引先を訪ね、TVショッピング番組への出演や講演会などを行い、「広告塔」として国内外を飛び回る。

ちなみに、先代社長で現会長の父・喜代松氏は現在も毎日出社し、ともに経営を担う。普段はぶつかることも多いが、根本的な価値観を共有し、事業計画書にまとめているため、事業運営ができているという。

「今はモノがどんどん売れる時代ではなく、先代が社長就任した頃とは社会背景が違います。ですから変えるべきところは変え、変えてはいけないところは変えない。ぶつかる壁が大きいほど、乗り越えたときの収穫も大きいもの。今後もワクワクするようなビジネスを続け、後継者に譲る日まで全力疾走するつもりです」

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株式会社ヤマト屋
代表取締役社長 正田 誠

1966年、東京都生まれ。1988年、日本大学芸術学部写真科卒業後、銀座伊東屋に就職。1991年、父・喜代松氏が代表取締役社長を務める株式会社ヤマト屋に入社。2001年常務取締役、2003年専務取締役に。2008年、4代目社長に就任。「ゆとり創出プログラム」「量産職人養成プログラム」などのさまざまな改革以外にも、企業理念に基づく地域貢献活動「台東区大江戸清掃隊」、社長自ら毎朝社内のトイレ掃除を行う全社一斉清掃活動など、ユニークな活動で知られる。NPO法人日本テディベア協会理事。