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元F1レーサーに学ぶ

頑張ることを恥ずかしいと思ってはいけない
~今までの人生に悔いは無い。これからもチャレンジを続けていく~

元F1レーサー 片山 右京

「自分のためではなく、自分を生かしてくれるもののためにチャレンジしたい」──そう語る片山氏。
現在も「チーム右京」を率い、自動車・自転車・登山、さらに子供たちのためのチャレンジスクールなどに関わっている。飽くなきチャレンジ精神、その中心にある考えを聞いた。

F1は自分のために用意された場所。体に電気が走った

小さい時は、父親に連れられてよく山に登っていました。そのお陰で足腰は強くなり、学生時代の陸上部では速い方だったと思います。ですが、登山をして足腰が強くても、陸上の才能はありませんでした。

ところが、車の運転だけは別でした。初めてステアリングを握った時から、不思議なほど自然に車をコントロールできました。高校卒業後、フォーミュラーカーでいきなり筑波サーキットを走ったのですが、最終コーナーを時速200キロ以上のままドリフトして入っていったら、コースレコードからコンマ1秒遅いだけの記録。「ああ、モータースポーツというのは自分のために用意されたものだ」と、電気が走るように感じました。

それからは夢中でした。F1レーサーになろうと思いましたが、お金がないので、住むところもない。どうしようと思って、鈴鹿にある海水浴場の砂浜にブルーシートを敷いて寝たり、車の中や鈴鹿の近くの工事現場にある宿泊施設の一角を借りて寝泊まりしていたこともありました。バイトもスナックや鉄工所など、色々経験しました。フランスに渡って一人で住みだしたころは、日本料理店の余りものをもらったりして、何とか日々を過ごしていました。

その頃は、走り方もめちゃくちゃで、支配人におまえは走らせないぞとか言われたこともあります。F1レーサー時代は、僕のドライビングスタイルから「カミカゼ・ウキョウ」とも呼ばれましたね。また、周りのレーサーには、「おまえは遊びかもしれないけれど、俺は生活がかかってるんだ。邪魔するな」と息巻いて伝えたりとか、まあ、いろいろやりましたね。

時速250キロのコーナリング。集中すると音も色も消える

元F1レーサー 片山 右京

何がそこまで自分を駆り立てたかというと、コンプレックスだと思います。高校の時、進路指導の先生に、「これからどうするんだ」と聞かれて、思わず「F1ドライバーになります」と大見得を切って大笑いされたことがあります。絶対、あの先生を見返してやろう、そういう卑屈パワーみたいなものがありました(笑)。

あの頃は自分の中にモンスターがいた。何をしでかすかわからないぐらいの狂気です。理性がちょっとでも欠けたら、とんでもない方向に行っていたかもしれない。そのエネルギーをF1にぶつけることができたのは幸いでした。

レースでクラッシュして集中治療室で意識を取り戻すことが何度もありました。ただ、大怪我なんですが、痛みを感じないんです。レースへの情熱が痛みを消してくれる。飛び起きるようにしてリハビリを開始したものです。当時は、寝ても覚めても風呂に入っている時も、レースのことだけを考えていました。全神経の「99.8%」はレースに集中。勝つことしか考えていない。2位は敗北だと思っていました。

レース中は死に対する恐怖からなかなか逃れることができません。その恐怖をどれだけ遠ざけて、自分をレースに集中させるか。死ぬかもとか、レースに負けたらどうしようとか、そういう余計な考えを一つひとつそぎ落としていくと、不思議な感覚が訪れるんです。

時速250キロ位でコーナリングをしながらも、「あと5ミリはガードレールに寄れるな」と冷静に見えている自分がいる。「もう100分の7秒ぐらいアクセルを速く踏めるはずだ」と計算している自分がいるんです。自分で脳に命令して、それが足に伝わり、アクセルを踏むんですが、「なんて遅いんだ、俺は恐竜のような神経か」と自分を呪ったこともありますね。天才ほど、脳と手足が直結しているものなんです。

走りへの集中が極限まで高まると、まず音が聞こえなくなります。それから風景から色が消えてなくなる。モノクロの世界です。そして視界に映るものがだんだんスローモーションのように見えてくる。よく野球の打者が「ボールが止まって見えた」っていいますよね。それと似ているかもしれません。

転がる石が収まるように辿り着いた場所

元F1レーサー 片山 右京

ただ、F1を走っていたころの自分は、どうしようもなく独りよがりだったと思います。すべて自分の力だと思い込んでいた。ファンからの声援も素直に嬉しく思えなかった。若かったからまあ仕方がないんですが。モナコに住んでスポーツカーを何十台も持って、年収を何億と稼いでいても、何かが違うと思っていた。幸せだけれど何かが違うとずっと感じていました。

10分前まで親しく話をしていた仲間が、目の前でクラッシュするような世界です。もっと身近な人の死も体験しました。僕自身、年齢を重ね、結婚もして子供をもつようになって、走り続けることの意味、挑戦し続けることの意味が少しずつ変わってきたんです。

人が何か目標を達成する時って、二つの段階があるように思います。強烈なモチベーションでエネルギーを燃やして、がむしゃらに夢に向かっていく段階と、そうじゃなくて、年齢を重ねることで自然に、気づいたらああここに来ていたか、というような感じで達成できる段階。転がる石がいろんなところにぶつかって、最後はあるべきところに収まるような感じですかね。

僕も今年から50代です。若い時のようなコンプレックスからは解き放たれています。最近は「おじいちゃん」化したなんて自分で言っています。これまでのいろいろな偶然が必然のようにさえ思える達観した境地です。ですが、決して受け身の人生観じゃありません。自分から積極的に行動すればたとえうまくいかなくても、それは自分の経験知になる。自分のためではなく、自分を生かしてくれるもののためにチャレンジしよう。そういうポジティブシンキングはむしろ今の方が強いですね。

チャレンジスピリットで集まる「チーム右京」

今は自動車や自転車のレース、それに登山には「チーム右京(TeamUKYO)」として参加することが多いですね。僕の会社、片山プランニングが運営していますが、チームといってもカチッとした組織があるわけじゃなくて、僕がこれまでのF1、登山、ロードバイクなどさまざまな挑戦を続けるなかで感じたスピリット、例えば「頑張ることは恥ずかしいことじゃない」「決して諦めてはいけない」というようなことに共鳴する人たちが集まって活動をする場という感じです。

例えば、小学生たちを集めて相模原市を拠点にさまざまな野外体験活動などを行い、片山流のチャレンジスピリットを伝えています。野外体験だと、都会では得られない素晴らしい体験ができます。泳ぎたいなら、清流が近くにあるので、そこで泳げばいい。お腹が空いたら芋を掘って食べる。このように、お金をかけなくても、楽しく過ごせる方法を僕らが伝授しているんです。

東日本大震災の時は、微力ながら支援活動の一端を担いました。ある時、福島の被災者の方にミシンを送る活動をしている方たちがいるのを知りました。被災者の方は、送られたミシンでエコバッグなど様々なものを作っていたので、そこで僕達は、自転車レースの時にペットボトルなどを入れるバッグに使えるのではないかと考え、広めるお手伝いを行っています。自分が縫ったバッグを選手たちがつけて走っていると思えば、被災者の方も頑張れるし、選手たちだって頑張れる。そういう小さな絆や思いやりってとても大切なことだと思います。

人の役に立つことで、人は自分を生かしている

元F1レーサー 片山 右京

「頑張る」という言葉、僕はよく使いますけれど、それには深い意味があります。1996年、まだ現役のF1ドライバーだったころ、あるボランティア団体から、白血病の子供を励ましに病院に行ってみませんかというお誘いを受けました。自動車レースが好きな子が病気で苦しんでいるのなら励ましてあげたい、そんな気持ちから僕はその話を引き受け、彼に会い「頑張れよ、絶対、諦めるんじゃないよ」と言葉をかけました。

それから2カ月ほどして、闘病の甲斐なく彼が亡くなったことをお母さんから知らされました。僕は簡単に「頑張れよ」なんて声をかけたことを、猛烈に悔やみました。あの時、彼の生死のことをどれだけ真剣に考えていたのかって。それが「頑張る」ことの意味を考える大きなきっかけになりました。

人はなんのために頑張るのか、何のために生きて死ぬのか。人間はたった一人では生きられない動物だから、助け合い、支え合いながらしか生きられない。一人ひとりがどんな小さなことでもいいから、人の役に立つことで、生きる希望を見出すことができるんだと思います。人の役に立ちたい、それが「頑張る」ということなんじゃないかと。

被災者支援なんて国や政治家がやるべきだという人もいるかもしれないけれど、やはり人と人とのつながりからそれが生まれてくることが嬉しい。どんな小さなNPOや企業、個人レベルだとしても、それらが連携すれば、きっと大きな力になると信じています。

変化の前にたじろいで、受け身になると腐ってしまう

もちろんこうした活動をするにはお金も時間もかかります。事務作業も大変です。イベント一つ開くにしても、準備作業を紙に書き出すと、かなりの厚さになってしまいます。

それでも単なる一時のボランティア活動には終わらせたくない。継続するためには、きちんとお金が回るようなビジネスモデルにすることが大切です。もちろん、僕はそうした活動からお金を得ようとは思っていません。お金が先に出ると、どんな綺麗事を言っても誰も信じてくれない。でも真剣に誠実にやっていれば、誰かがちゃんと見てくれていて、いろいろ支援してくれるものです。

だからこそ、僕はリーダーとしての自分を律するように心がけています。交通信号は守り、毎朝近所のゴミを拾う。笑い話みたいなことだけれど、在来線の電車に乗っても絶対に座らない。なぜなら、僕はまだ元気だからいいけれど、そうじゃない人がたくさんいるから。そういう人にこそ電車の座席はあるんです。それが行きすぎて、誰も乗っていない車両でも、僕一人で立ってたりすることもありますけれどね(笑)。

「片山君はレーサーなんだから、スポーツカーを乗り回してもいいじゃないか」という支援者の方もいます。だけど、お金を集めに行くのに高級車で来られたら、支援者の方だってイヤじゃないですか。近所なら自転車、遠い所なら環境を配慮してプリウスを乗るようにしています。

元F1レーサー 片山 右京

人は変化の中で生きていきます。特に最近の世の中は、ものすごい勢いでいろんなものが変わる。変化の前にたじろいで、受け身になるとそれがストレスになる。そこで止まってしまうと人間が腐るんです。淀みの中の水が腐っていくようにね。

そうならないために積極的に動く。それが僕の生き方です。アクティブに行動して、いろいろな人とつながる。そのつながりの中で自分も変わっていく。それが大切だと思う。

思春期のコンプレックスを糧にF1ドライバーに挑戦し、いろんな世界を見てきました。大切な人が死んでいくのを見送り、そうやって大人になって、次第に価値観も変わってきました。けれども人生の小さな一つひとつの分かれ目で、その都度、自分が判断して選択してきた。そのことに悔いはありません。これからも変わり続けていくと思う。もはや「カミカゼ右京」じゃないけれど、これからもずっと「チャレンジ右京」ではあり続けたいと思っています。 (談)

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元F1レーサー
片山 右京(かたやま・うきょう)

元F1ドライバー、自転車競技選手、登山家。
1963年生まれ。1983年にFJ1600筑波シリーズでレースデビュー。F1に6年間連続参戦し、日本人では最多の95戦に出場。1994年には当時の日本人予選最高位である5位を記録。恐いもの知らずの走りで世界最速を競う姿は「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれ、多くのファンを魅了してきた。自動車レースはF1だけでなく、ル・マン24時間、SUPER GTの前身である全日本GT選手権、ダ・カールラリーなどに参加。また、F1引退後は2001年に世界第6位のチォーオュー(8,201m)、2003年にシシャパンマ(8,008m)、2006年には世界第8位のマナスル(8,163m)に登頂するなど国際的な登山家としても名を馳せる。

(監修:日経BPコンサルティング)