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元横綱に学ぶ
厳しい稽古がつくってくれた、私の人生の道
~天才はいない。稽古を怠らない人だけが横綱へ近づく~
第58代横綱・千代の富士 九重 貢
昭和最後の大横綱と呼ばれた「千代の富士」は、1991年5月場所を最後に引退。その後は九重部屋を継承。後進を育成する上で心がけていることや、相撲の魅力を社会に伝えるために尽力したことなどをお聞きした。
脱臼の恐怖があったからこそ、自分の相撲の型が完成した
中学生で入門したので、相撲の道はまさに私の人生そのものです。この道を選んで何がよかったかといえば、それは「辛抱」ということを教えてもらったことですね。今日に至るまで紆余曲折ありましたし、何度も挫折を味わった。相撲は自分に向いていないんじゃないかと思うこともありました。ただその度に、これで終わっていいのか、頂点に立つことなく、結果を残すこともなく辞めてもいいのかと思い直し、気持ちを奮い立たせてきました。それが辛抱ということです。
もちろんその都度、応援してくれた人たちがいたからこそ、できたことではあります。今も相撲界に残っているのは、その人たちへの恩返しをしなければならないという思いがあるからです。
挫折感といいましたが、そもそも私は幕内の平均体重が140キロ台だった時代に、96キロしかなかった"小兵"です。相撲では体重を増やさなければ強くなれないんですが、どう頑張っても125キロよりは増えなかった。かなりの体重差があるなかで、大きな相手とぶつかって、投げ飛ばされて怪我をすれば、悔しいというよりも、この先自分はこの世界でやっていけるんだろうかと不安に思いましたね。
さらに肩の脱臼という"バクダン"も抱えていました。普通の人よりも肩の関節の組み合わせが浅いんですね。無茶な相撲を取ると、肩が抜けてしまう。亜脱臼を含めると20回近くやりました。脱臼の恐怖感は横綱になってもつきまといました。
ただ「怪我の功名」という言葉もあるように、身体に不安があるからこそ、故障しないように身体づくりに励んだし、相撲の型を変えることができました。かかりつけの医者には、筋肉を鍛え、それを"鎧"のようにすればいいとアドバイスをもらったので、鉄アレイやダンベルなど器具を使った筋力トレーニングを取り入れました。
その結果、鎧とまではいかないまでも筋力がつきました。しかしその力に頼って、すぐに組みにいって強引に投げてばかりでは、小さい身体が悲鳴を上げてしまいます。怪我をする度に、怪我をしないようにどうしたらいいか考えました。試行錯誤の上、強引に攻めるのではなく、力を有効に使うことが大切だと気付き、だんだん自分の相撲の型ができあがっていきました。いわゆる「右四つの型」と呼ばれるものです。
怪我がなければ、自分の相撲はなかった。少なくとも、横綱時代の記録は生まれなかったと思います。
厳しい稽古があればこそ、目標に向かう力が湧いてくる
現役時代にはいくつもの記録を達成しましたが、最初からそれを意識していたわけではありません。長く頑張っていると、記録は勝手についてくるものです。自分では意識しなくても、「もう少しでこの記録に届きますよ」と囁く人がいる。それが新しい目標になります。自分にとってはプレッシャーというよりはいい刺激ですね。記録更新と言われる度に、かつての優れた力士たちに追いつきたい、追い抜きたいという気持ちが生まれてきました。
そうした目標へ向かう気持ちが湧き起こるのは、もちろん日々の稽古があったからでしょう。横綱になったからといって稽古は一日もおろそかにはできません。一日休めば、それを取り戻すのに三日も四日もかかるのです。しっかりと稽古をして、その"貯金"があれば、たとえ怪我で休んでもすぐに復活できる。力をためることは、精神的な余裕にもつながります。
私は休場明けに優勝することが多かったのですが、それは休場中にもモチベーションをコントロールできていたからだと思います。休場明けは、いつもの場所よりも闘志がギラギラと湧くのを感じていました。
厳しい稽古をしっかりやっているからこそ、自分をコントロールできる。一度でも自分を甘やかしたら、どんどん甘い方向に行ってしまう。そうならないように、自らの力で導いていくことが重要です。
相撲は勝負の世界ですからね。ずっと相撲を取っていたいと思っていても、負けが続けば厳しい。周りから引退を勧告されてしまう。そういう力の世界にずっと身を置いてきたのです。
良きライバルたちの存在。胸を借りて勝ち方をつかむ
勝負の世界にはライバルがつきもの。昇進していく過程で、自分よりも大きな存在が必ず立ちふさがります。最初はとても勝てそうには思えないが、一歩でも二歩でも近づけるようにぶつかっていく。そうすると自分が勝てるポイントが見つかってくるものです。
私は自分が負けた相手には、よく出稽古を申し込みました。例えば琴風関(現在は年寄・尾車)、彼にはなかなか勝てない時期がありました。なぜ負けるのか、取り口に問題があるのではないか。それを見極めるためには、琴風関ともっと稽古をするしかないんです。彼と稽古をするために、どこにでも駆けつけ、胸を借りました。そうするうちに、それまで7連敗していたのが、1980年の九州場所で初めて勝てた。そこからは20勝1敗と逆に得意の力士になりました。
同じ部屋に稽古相手となる力士が少なかったので、出稽古にはよく出かけたのですが、そのうち同部屋に北勝海という、私より8歳年下の力士が入ってきました。どんなきつい稽古にも「まだまだです」というヤツで、気構えが他の力士とは違っていました。彼は私の格好の稽古相手になってくれましたね。
北勝海と稽古するようになって、琴風関との稽古が少なくなった。それもあったのでしょうか、琴風関はしばらくすると引退します。一方、北勝海は横綱まで上りつめました。1989年の7月場所では兄弟弟子同士の優勝決定戦もやりましたね。いい稽古相手、いいライバルがいるからこそ、人は伸びる。それは相撲の世界でも他の社会でも言えるんじゃないかと思います。
頭ではなく身体に染み込ませる──相撲における稽古の意味
相撲に限らずあらゆるスポーツにおいて、稽古は一番大切なものでしょう。稽古をする人は勝てるし、しない人は勝てない。稽古もせずにいきなり横綱になれる天才はこの世にはいません。おそらくこれはビジネスの世界にも同じことがいえると思います。
1ができたから2ができる、いきなり3になれるわけではない。一つひとつ稽古を通して自分の技を向上させていく。この考えは横綱になってからも変わりませんでした。どうすれば投げられるようになるのか、どうすれば土俵際で踏ん張れるようになるのか、そのイメージを描きながら身体に染み込ませるようにして、毎日毎日欠かさず稽古を続ける。頭でなく身体が反応するまで、身体に覚え込ませるんです。これを体得といいます。これはつらい稽古ですよ。しかしそうしないと絶対に上に上がれない。
相撲における伝統的な稽古の方法として、代表的なものに「四股」「鉄砲」「股割り」「すり足」などがあります。なかでも重要なのは四股と鉄砲です。なぜなら、四股と鉄砲には相撲に必要な動作がすべて含まれているからです。もちろん、単に四股と鉄砲をやればいいわけではない。むやみに身体を動かすだけではだめ。何のためにこれを繰り返すのか、それがわかっていないと身につかない。何のための稽古なのか、こればかりは親方に教えられただけではなく、自分で腑に落ちるところまで納得しながらやらないとだめなんですね。そこがわかっている人は、教えていても伸びが早いですよ。
一人ひとりの個性にあわせた指導が必要
相撲部屋をもつことは現役時代からの目標だったので、準備万端で部屋を引き継ぎました。ところが、部屋の運営というのは思った以上に難しい。人の使い方、動かし方、指導のしかた、最初は全くといっていいほどできませんでした。若い弟子に指導していても、なんでこんなこともわからんのだと、いらいらすることもしばしばでした。そのうち、人は十人十色、それぞれ違うということに気づいた。この子には10以上を言わないと動かない。しかし別の子は1を言うだけで10がやれる。弟子一人ひとりの個性の見極め方、それぞれへの接し方を変えることが大事なんだと思うようになりました。
私の指導法は一言でいえば、アメとムチの使い分け。ご褒美としておいしいものを食べに連れていくことがアメです。ただ、糖尿病にならない程度にですけれど(笑)。ムチというのは鉄拳を加えるということじゃないですよ。めげそうになるのを、まだまだおまえはやれると追い込んで、その技量を一段高みに引き上げてやることです。相撲を体得するには時間がかかります。相撲の世界で大成している人は、小さい時から相撲部屋でたたき上げられてきた人が多いです。ところが最近の若い相撲取りは、そこを飛ばしていきなり10をやりたがる。これは無理というもの。天才なんていないんだから。
貴乃花、若乃花以来、日本人横綱が出ていない。番付をみればわかりますが、幕内も十両も幕下も、モンゴル勢を中心に外国人力士が増えています。日本人横綱の復活は、もちろん私も切望していますが、これはけっして簡単なことではありません。外国人横綱は何も体格だけで相撲を取っているわけではない。しっかりやるべき稽古をして今の地位を勝ち取っているわけですよ。そこを日本人力士も学ばなければならない。どんどん出稽古して、胸を借りてぶつかって、そこから技を盗まなければならない。最近は出稽古をする力士が少なくなっています。自分の部屋でだけ稽古していたほうが楽ですからね。しかし、何度もいうようにつらい稽古を重ねないと、けっして相撲はうまくならないのです。
相撲の魅力をもっと広げたい
日本相撲協会での仕事も、私の後半生の大切なテーマになりました。相撲は単なるスポーツではなく、神技(しんぎ)という側面もある。礼儀作法など日本古来の伝統文化の素晴らしさを含んでいるからこそ、国技と呼ばれるのです。相撲の素晴らしさをもっと広めたい。そのためには指導者を育てることが大切。相撲協会は力士や親方を全国に派遣して、相撲指導者の育成に力を入れています。例えば、わんぱく相撲全国大会で勝ち上がってきた子どもたちに、相撲部屋に泊まってもらい、体験学習を行っています。本物のお相撲さんと触れ合うことで、もっと相撲を身近に感じてもらう狙いです。
チケット販売促進のためにもいろいろなアイデアを考えてきました。豪華客船に乗りながら力士と触れ合い、トークショーを楽しむ大相撲クルーズなども初めての試みです。また、若い女性の相撲人気を取り戻すには、所作がかっこいい力士が、手に汗を握る取り組みをする必要がありますね。相撲協会としては、相撲の素晴らしさを伝えるための力士や部屋の努力をサポートしていきたいと思います。
私の相撲人生からビジネスパーソンの皆さんに伝えられることがあるとすれば、ビジネスも相撲と同じくらい厳しいということ。昔のように先輩社員が手取り足取りで仕事を教えてくれるわけでもない。仕事ができない人はすぐにクビになります。これはもしかしたら相撲部屋よりも厳しいかもしれないですね。だからこそ自分の道は自分で切り開いていくしかない。会社から一方的に与えられた道ではなく、自分で選んだ道と言えるぐらい、真摯に仕事に取り組めば、どんな人だって、その人生で後悔することはないだろうと、私は思うんですよ。自分の意思で選んだからこそ、その道は貴いのですから。(談)
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第58代横綱・千代の富士 九重 貢(ここのえ・みつぐ)
1955年生まれ。本名、秋元貢。北海道福島町出身。中学生で九重部屋に入門。1970年9月に初土俵。小兵ながら速攻と上手投げを得意とし、一時代を築いた。通算勝ち星1045勝、史上2位の幕内最高優勝、1988年の横綱53連勝など大記録を打ち立てる。1989年国民栄誉賞を受賞。1991年引退。年寄・九重を襲名し、現在は九重部屋親方として後進を育成。
(監修:日経BPコンサルティング)