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元プロ野球選手に学ぶ

「投げ続けたい」という思いが、
自分の体を変えていく
~“師”と言える人に出会えたことが、
野球人生を意義あるものにしてくれた~

元プロ野球選手 工藤 公康

プロ野球で長年左腕をふるってきた工藤公康氏。謹厳実直の鉄人というより、絶えず自分の意思で創意工夫を重ねてきた個性派の才人という印象がある。肉体よりも意識が先行し、自ら「限界」を決めて諦めてしまう人が多い中、工藤氏はその壁をいかに突破してきたのだろうか。

人にいわれるままではなく、自分で勉強して納得するようにした

1981年にドラフトで西武ライオンズに入団、いくつかの球団を渡り歩きながら、2011年に引退。足掛け29年の現役生活でした。長いようだけど、現役引退後の人生を考えれば短い29年間だったともいえます。

プロで29年も続けたことに驚く人が多いですが、同じ野球選手ならピッチャーの方が長く続けられると思います。野手の方がけがをする確率が高いというのが実感です。ピッチャーは肩や肘(ひじ)が壊れなければ寿命は長い。もちろん長く続けるためには、けがをしないということ以上に、普段のトレーニングは欠かせない。そして一番大切なのは、投げ続けたいという思いです。

その思いは人一倍強かったですね。例えば肩や肘を痛めると、すぐに手術という話になりますが、僕の場合は医者にそういわれても素直に従うことはなく、結局一度も手術はしませんでした。手術をすると本当に投げられるようになるのか、リハビリやトレーニングにどれくらいの時間がかかるのか、納得できないままに手術をするのが嫌だったんです。人にいわれるままではなく、自分で判断したかった。もちろんそのためには、スポーツ医学や運動生理学など、そういうことを知っていないといけない。だからものすごく勉強はしましたよ。

面白いことに、投げたいという思いが強ければ強いほど、知らないうちに自分の体の中で変化が起きて、それこそランナーズハイのようにアドレナリンが分泌されて、それが痛みをほぐしてくれるんです。普段の生活でも、アドレナリンを意識して出すように訓練しました。そういうアドレナリンは、ずっと投げ続けたいと思っている人でないと、なかなか出ないものだと思います。

若い時は遊び第一。結婚を機にあらためて野球と向き合う

元プロ野球選手 工藤 公康

ただ、そういうモチベーションを若い時からずっと持ち続けていたかというと、そんなことはないんです。若い頃はヤンチャでしたよ。遊びが第一で野球は第二というぐらい、遊んでいましたからね(笑)。

1982年から1994年頃にかけて、西武ライオンズは黄金時代といわれていました。僕や渡辺久信、清原和博など、個性の強い選手が多かった。それまでの野球界の古い習慣に息苦しさを感じていて、常識を破ろうと考えていました。ヒーローインタビューで観客を笑わせるような面白いことを言い出したのも僕らが最初だと思います。優勝の監督胴上げの時も、その輪に加わらず、テレビカメラに向かって万歳とVサインですからね。

そんなものだから、普段の生活も、寮を抜け出して夜遅くまで飲んで、寝不足のまま次のマウンドに立ったりして、もう体はボロボロ。このままじゃ、工藤も終わりだなといわれた時もありました。

今から思えば、若い時の遊びは無駄ではなかったですね。いろいろと社会勉強ができたし、野球界以外の人との交流も生まれた。仕事のことしか知らない謹厳実直な人が、それなりの年齢になってから遊びを覚えると、ハマり過ぎてダメになってしまうということがあるでしょう。僕は若い頃に遊んだので、そういうことには免疫がつきました(笑)。

ただ、その頃から自分の中で、遊ぶのは30歳までと決めていたんです。30歳を過ぎたら真面目に野球をやろうとね。27歳で結婚しましたが、それがよい転機になりました。内臓なんかボロボロだったのを見て、妻が食事を工夫してくれました。トレーニング法を自分なりに勉強して、トレーナーも自分で指名するようになりました。長く現役を続けるためにはどうしたらいいのか、スポーツ科学を真剣に勉強するようになったのも、それからです。

筋肉の痛みはトレーニングで治す。長寿の秘訣は限界をつくらないこと

元プロ野球選手 工藤 公康

もともと身長も低く、若い頃はやせていたし、プロ野球選手の体として恵まれてはいなかったです。筋肉の質も、必ずマッサージしないと翌日肩が上がらない。そんなことをしなくても、すぐに筋肉が回復する渡辺久信がうらやましくて仕方なかったですね。

プロ10年目を過ぎた頃、ハムストリングの肉離れの治療がきっかけで、筑波大学の白木仁先生に出会いました。体を痛めると静養してマッサージ治療に専念するというのが普通だと思うんですが、白木先生は「この痛みを治すにはトレーニングしかないね」と言い、最初は戸惑いましたね。半信半疑でトレーニングを始めると、不思議なことに痛みが取れていくんです。同じ肉離れでも、突発性のものか、古い傷なのかで対症療法は違ってくる。専門家ならではの判断でした。

ただこれが、けっこう厳しいトレーニングなんです。200mのインターバル走を20本とか、50kgのウェイトを持ったまま、フライングスプリット(ジャンプして足を前後に開いて止める動作を繰り返す運動)とか、若い時にもしたことがないようなトレーニングでした。その頃は29歳ですからね。苦しくて、心拍数も200は超えていたと思います。

ただ、この時に分かったんです。自分はもう年で限界だと思い込んでいても、人間の体というのはトレーニングを繰り返すことで、実はその限界を超えていくことができるということを。体がきついというのは、トレーニングをしたくないための言い訳でしかないんです。「限界」という言葉はその時から僕の中では禁句になりました。

厳しいトレーニングに耐えることができたのも、先生が「工藤君が40歳までやるつもりなら真剣にサポートする」と言ってくれたからです。僕も40歳までやれるなら、本気で取り組もうと思った。実際、40代になってからも、基本的に練習量は若い時とそう変わりませんでした。ただ、若い時には短時間でこなしていたものを、もっと時間をかけてやるようにはなりましたけれど。

自分の限界をつくらない。そのことを教えてくれたトレーナーの先生たちには深く感謝しています。甘やかしではなく、厳しいことを言うからこそ、その人を信用できる。そういう"師"とも言える人に出会えたことが、その後の僕の野球人生を意義あるものにしたのだと思っています。

リストラで人生が終わるわけではない。自分の力を生かす道はきっと他にある

29年のプロ野球選手生活の中で、僕は2度の戦力外通告を受けています。一つは2009年の横浜ベイスターズ。選手の若返りを図りたい球団本部から、来シーズンは使わないと明言されました。僕は現役でまだやりたかったので、その意思を示すと、古巣の西武が拾ってくれました。2010年シーズンは新しい背番号を着けて臨みましたが、10試合で0勝2敗の成績。ここで2度目の戦力外通告です。僕はまだやれると考えて、翌シーズンもトレーニングに励んでいましたが、獲得に名乗りを上げる球団は現れませんでした。結局、肩の故障が治癒しないこともあって、その年の12月に現役引退を決意しました。

戦力外通告は企業に勤めている人でいえば、リストラですね。プロ球団でも普通の企業でも、何のためにその人を雇っているかといったら、勝負に勝つためであって、その能力がないとクビになるのは当たり前。それに対していちいち文句を言っても仕方がない。ただ、あくまでもその球団の戦略構想上、必要とされなかっただけであって、他の球団の戦略に合えば、まだ自分の能力を生かすことはできるんです。

例えば、先発投手としてはそれほど勝ち星を期待されなくても、工藤がいれば若い選手にとって何らかのプラスになると判断されれば、僕の役目はある。監督が若手に伝えきれないことも、ベテランの現役投手ならスムーズに伝えることができるかもしれない。

そもそも戦力外通告を受けたからといって、人生の全てが終わりになるわけじゃない。野球をやめた後の人生の方が、普通はもっと長い。くよくよ落ち込んでも仕方がありません。気持ちを切り替えて前に進むことが大切です。たとえ全ての球団からオファーがなかったとしても、野球界全体のために自分を生かす道はある。そういうつもりで今、野球解説の仕事に精いっぱい取り組んでいます。

長く続けられたのは、常識にとらわれず、人がやっていないことをやったから

元プロ野球選手 工藤 公康

僕が長く現役を続けられたのは、もちろん30代、40代のトレーニングの成果があります。特に40歳以降の選手のトレーニングは、未知の領域でした。体幹を鍛えるのは、今は当たり前のトレーニング法ですが、当時、それを意識的にやっていた選手は少なかったと思います。常識にとらわれず、人がやっていないことをやったからこそ、選手生命を延ばすことができたのだと思います。

もちろん、40歳を過ぎてから球速が上がるなんてことは、まず現実的にあり得ない。せいぜい全盛期のスピードを保つのがやっと。でも、この平行線を維持することが大変なんです。常にチャレンジし続けないと、とても維持なんてできません。

ベテランの域になると、よく若い選手からピッチングを教えてくれと頼まれました。「どうしたらコントロールが良くなるんですか」「どうしたら球が速くなるんですか」と。もちろん自分なりの答えはあります。球を速くしたり、コントロールを良くしたり、変化球を覚えるのは1年もかかりません。でもね、結局それはみんな自分で試して覚えるしかないんです。

試しもしないで、すぐに解答だけを求めるような若手は突き放しました。僕がその選手のフォームをいじくり回して、それで速く投げられるようになってうれしいのか。自分の野球を楽しんでいることになるのかってね。「おまえはどういう練習をしたいんだ」とも思っていましたね。練習方法を選ぶのは選手です。たえず自分の意見を持っていることがプロ選手としての最低限の条件ですからね。

選手本人が見て「なるほど」と思えるような解説を

元プロ野球選手 工藤 公康

今はテレビで解説したり、小・中学生に野球教室を開いたり、最近は高校生も指導するようになりました。解説の仕事はなかなか奥が深い。若い選手にインタビュー取材をすると、ついいろいろ突っ込んで聞いてしまいます。どういうトレーニングをしているのか、いつもどういう感覚で投げているのか、どういう風にバッターを見ているのかって。僕が自分なりの配球を考えられるようになったのは30歳を過ぎてからですが、「学生時代からやっていました」なんて答える選手がいると、少し驚きます。今の若い選手は、野球に対する感覚が鋭いですからね。そういう表には現れないセンスを引き出して、分かりやすく視聴者に伝えるようにしています。

ピッチャーが打たれると、「ボールが甘い、高い、球威がないから」という解説をよく聞くと思います。ですが、重要なのはなぜその時に、「ボールが甘くなったのか」という理由だと思うんです。普段はできているのに、なぜあの時にできなかったのか。そのメカニズムを自分なりの経験を踏まえて解説する。一番いい野球解説は、選手本人が後でビデオを見て、「悔しいけど、あの解説者の言うことも間違っていないな」と納得して、それを参考にできるようなもの。それが結果的に視聴者にとっても面白い解説になるんだと思います。

もっと技術的な解説もしたいけれど、ピッチャーのフォームの話だけしているわけにもいかないし、選手全員に専門の固定カメラを付ければかなり面白い映像が撮れると思いますが、そんな経費はかけられない。現状でできる範囲で最大限のことをしたいと思っています。

番組スタッフといつも話しているのは、「あのピッチャーは駄目だ」と選手をぶった切るようなことだけはしないようにしよう、ということ。その選手にとって次につながる課題を、解説を通して提示したい。僕自身も番組スタッフのそれぞれの仕事を理解しながら、解説者の役目は何かということを常に考えています。現役の頃は野球チームだったけれど、今はテレビのクルーがチームですね。わずか1分の映像を作るのに1時間くらいかけています。それだけ、みんな野球を愛しているということなんです。 (談)

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元プロ野球選手
工藤 公康(くどう・きみやす)

1963年愛知県生まれ。名古屋電気高校で甲子園に出場し、ノーヒットノーランを記録。1981年に西武ライオンズ入団。エースとして西武ライオンズの黄金時代を支え、在籍13年間で8度の日本一を成し遂げる。1994年に福岡ダイエーホークスへFA移籍、さらに読売ジャイアンツ、横浜ベイスターズへ移籍。2009年古巣である埼玉西武ライオンズへ復帰し、2011年に現役を引退。現在はプロ野球解説者として活躍。著書に『折れない心を支える言葉』(幻冬舎)などがある。

(監修:日経BPコンサルティング)