著名人から学ぶリーダーシップ著名人の実践経験から経営の栄養と刺激を補給
料理の鉄人に学ぶ
坂井宏行シェフから学ぶ
“鉄人”流マネジメント術
ラ・ロシェル 店主 坂井宏行
フランス料理の“鉄人”として知られる、高級フレンチレストラン「ラ・ロシェル」のオーナーシェフ・坂井宏行氏。まだフランス料理が一般的でなかった時代に内外での厳しい修業を経て学んだこと、懐石料理など異分野との出合いから生まれた独特の料理哲学、そして繁盛店を切り盛りする上で体感したマネジメントの極意などを伺いました。
コック服を身にまとった自分の姿に惚れろ
戦争で父が戦死し、母が和裁の仕事で3人の子供を育ててくれました。戦後の貧しい時期、弁当もお米なんてほとんど入っていなくて、ふかしたさつまいもでかさ増しをするんですよ。母を助けるため、小さいときから台所に立ちました。母は「手に職をつけなさい」と常々言っていたから、料理人の道に入るのは、僕にとってごく自然なことでした。
何より料理人はかっこよかった。特に西洋料理のコックは。あの白いコック服とコック帽を身につける自分をイメージして、修業に励みました。今もスタッフによく言うんですよ、「コック服の自分を鏡に映したときに、その姿に惚れろ」と。カタチから入るというのも実は大切なことなんです。
料理の世界では、当時はまだ丁稚奉公の世界。来る日も来る日も掃除、洗濯、鍋洗い。包丁を使うのはジャガイモの皮むきだけ。親方の靴磨きから始めた店もありますよ。僕としては一刻も早く料理を覚えたい。海外ではそういうことはあまりないと聞いていたので、オーストラリアからの求人を目にしたとき迷わず飛び込みました。パースにある「オリエンタルホテル」で海外駐在員や日本人船員のための料理を作る日本人コックを求めているというのです。場所はどこでもよかったんです。パースがどこにあるかもわからないまま、旅客船でコックをしながら、海の向こうに渡りました。
パースのホテルでは、どんどん仕事を任せてくれました。包丁で器用に魚を三枚下ろしにしてみせると、みんな驚いて、すぐに魚料理を任される。やる気があって、自己アピールする人間はどんどん挑戦させて、成長させてくれる。この職場は自分に向いていましたね。
本物の材料を使い、異分野の仕事を知る――志度藤雄、金谷鮮治に学んだこと
オーストラリアで自信を深め、西洋料理のなかでも「フランス料理のシェフになる」と目標を定めた僕は、1963年、翌年にオリンピックを控えて建設ラッシュに沸く東京に帰国します。そんなとき、銀座の数寄屋橋近くにオープンするフランス料理店「四季」の求人広告が目に留まりました。その店のシェフは「志度藤雄」。まだ駆け出しの僕でさえ名前を知っている、吉田茂首相の料理番も務めたことのある伝説の料理人です。面接を6回も重ねて、やっと憧れの料理人の元で働くことができるようになりました。
志度さんは戦前にフランスにまで行って、料理を学んだ人。料理哲学に一本筋がピッと通っているが、手取足取り弟子に教えたりはしない。典型的な見て覚えろというタイプの料理人です。彼が吟味する素材はすべてが本物。ソースを作るにも高級伊勢エビをまるごと、デミグラスソースのワイン一つとっても、「えっ、これ使うの?」というぐらいの高価なワインを惜しげもなく使っちゃうんです。煮詰めると、葡萄のコクや香りが立ち現れるのはいいワインであればこそです。本物の素材を使えば、本物の料理ができるということを教えられました。
道具の使い方にも厳しかった。志度さんがフランスから持ち帰った包丁研ぎがあったんですが、あるとき僕が面倒くさがってそれで一斗缶の蓋を開けようとしたら、ガツーンと頭を殴られました。「それは蓋を開ける道具ではない。道具を用途に応じて大事に使えば長持ちする」とね。これも料理の基本です。
その後に勤めた店が「西洋膳所ジョンカナヤ麻布」でした。日本最古のホテル、日光金谷ホテルを作った金谷善一郎の孫で、大変な美食家でもある金谷鮮治さんが「これは自分の道楽の店だ」といって開いたレストラン。日本人の胃と舌に合うようにフランス料理に懐石料理のテイストを取り入れようと考えた金谷さんの命で、大阪の有名日本料理店の講習会に参加します。いまさらなんで懐石料理かと思いましたが、行ってみると、勉強になりましたね。日本の四季の感覚や懐石の考え方を取り入れた僕の現在の料理は、これがベースになっています。自分の技量を広げるためにも、未知の分野についてはその分野の師に素直に頭を垂れ、虚心坦懐に学ぶことが大切なのです。
レストランはチームワーク――常に相手の目線に立って話を聞く
あるとき、お寿司屋さんに行って大変美味しい青柳が出てきたことがあります。きちんと火を通しているのに、とても柔らかい。「どうやって調理するんですか」と寿司職人に聞きました。職人技の極致、いわば企業秘密なんでしょうが、僕が西洋料理のシェフだからか、快く教えてくれました。こちらが誠実に真剣に問いかければ、必ず相手は答えてくれるものです。
日本では僕がたぶん初めてメニューに載せた「牛蒡(ゴボウ)のポタージュ」も、きっかけはおでん屋さんです。大変美味しい煮牛蒡をいただいて、これはポタージュにしたらもっと美味しくなるはずとひらめいたのです。そういう意味では、僕は生涯、学ぶことを止めない料理人です。
こうした修業を経て、1980年に青山に自分の店「ラ・ロシェル」をオープンします。28坪、30席あまりの小さな店でした。オーナーシェフとなると、経営のことも後進の指導のことも考えなくてはならない。昔は、料理の世界では、オヤジ(料理長)が部下に大声をあげたり、足をけったりするのは当たり前。それも修業の一つだと考えられていたのです。でも、僕はね、そんなことは絶対にしない。暴力は人を萎縮させてしまうだけで、教える方にも教わる方にも何の得にもならないからです。
今は僕自身が厨房に立つことはありませんが、その代わり、店を任せている現場のシェフには、「人にモノを教えるときは、たとえ見習いが相手でもその目線に立って話を聞くように」とよく言っています。ただでさえ緊張している新人は、畏れ多くて自分の考えを言えない。だから、こちらが聞いてあげる必要があるのです。なにより、レストランはチームワーク。全員が一つのチームとしてまとまらなければやっていけない。全員が戦力になってもらうためには、他人を威圧して従わせるのではなく、本人が心の底から楽しいと思って付いてくる、そのようにしなければならないのです。
チャンスをつかむのは経営者の才覚。それを後押しするのはスタッフ
南青山にオープンした最初の店「ラ・ロシェル」は幸い、順調な滑り出しでしたが、全てが順風満帆だったわけではありません。1980年代の円高不況は店の経営にも影を落とし、スタッフの給与や光熱費の支払いにも頭を悩ませる時期もありました。ただ、86年ぐらいからバブル景気の兆しがあり、徐々に上向きに転じます。
そんな頃、ある方のご紹介で東邦生命ビル(現・渋谷クロスタワー)の32階に店を開かないかと誘われたのです。渋谷の一等地、眺望は絶好ですが、なにせ広さが約230坪もある。スタッフも青山の3倍は必要です。最初はそんな大きな店は無理だと断ったのですが、何度も誘われる。先方が断らざるを得ない無理難題の条件を提示すると、それでもいいとおっしゃる。
「できるかなあ」とスタッフに相談したら、「やりましょう」とみんなが賛成してくれました。チャンスをつかむのは経営者の才覚かもしれません。しかし、一緒に付いてきてくれるスタッフがいなければ何もできない。共に道を切り拓こうとするスタッフの存在は重要です。
いざ店を開くと、ちょうどバブル景気の波に乗り、店は予約を取れないほど連日満席。フランス料理ってこんなに儲かるのかと思うぐらいの大繁盛でした。ところがバブル崩壊と共に、急転直下。広いフロアに予約がゼロの日もありました。多額の借金も抱えていましたから、これで僕の人生も終わりかなと諦めかけたこともあります。
ただ、一つのアイデアがその窮地を救います。芸能人が高級レストランで結婚披露パーティーを開く姿を見て、これだと思い、レストランブライダルという仕掛けを始めるとこれが大当たり、一息つくことができました。
仕事は80%の力でいい。けれども79%は許さない
そうこうするうちにテレビ局から「料理の鉄人」という番組への出演をオファーされることになります。最初は断ったんです、ヘンテコな衣裳を着てテレビカメラの前で料理をするなんて恥ずかしいじゃないですか。ただ、番組関係者の押しに負けてワンクールだけ出演を了承しました。確かにメディアの力は大きい。僕も店も有名になりました。ただ、メディアというのは流行っている間はチヤホヤするけれど、落ち目になったら無視されることはわかっていましたから、店では「料理の鉄人」を決して売りにするな、天狗になるなとスタッフに戒めました。
結局、「料理の鉄人」出演は6年間も続きました。本当は料理に勝ち負けがあるわけではないけれど、限られた時間に料理を仕上げるのは中途半端な心構えではとてもできない。まさに料理も格闘技なのです。料理に真剣に立ち向かうよい機会にはなりました。なにより、料理人やシェフという職業の社会的ステータスを高めたという点で、あの番組が果たした功績は大きいと思います。
東邦生命ビルの店は最盛期には料理人だけで25人、他のスタッフが20人前後いました。レストランといえど、小さな企業体です。そのスタッフ全員を一つの目標に向かわせていくためには、何が必要かということを常々考えていました。
人間は誰でも、どこか一つはいいところがある。例えば、他の料理はできないけれど、ジャガイモの皮むきだけは誰にも引けをとらないとかね。それをいち早く見出して、その才能や役割を伸ばしていくことが基本です。
笑顔で仕事をしようということもよく言っています。やらされる仕事、歯車の一つでしかない仕事は面白くない。僕自身が若い頃からそう思っていました。仕事の中に楽しみを見出さないと人は一つの仕事を長く続けることはできないものなのです。
毎日100%力を出し切る必要はない、ともよく言います。「80%でいい。けれども79%は許さない」ってね(笑)。20%の時間的・精神的な余裕があれば、料理書を読んで勉強しようとか、どこか他の店に食事に行って経験を広げようという気持ちにもなる。その余裕が笑顔につながり、結果的にお客さまにもそれが伝わります。「80%で行こう」というのは僕のマネジメント哲学の根幹にあるものと言えるかもしれませんね。
レストラン業界もいずれ週休2日制が当たり前の時代に
毎年、僕の店には将来のシェフを目指す若いスタッフが入ってきます。昔のような下働きはほとんどさせません。僕の若いときと同じように、みんな一日でも早くナイフを持ちたいんです。下働きに何年も耐えるというのは今は流行らない。そんな余分な仕事をさせるより、すぐに調理の現場に放り込んで、経験を積ませるほうが合理的です。新人は仕事が遅いからといって、その仕事を取り上げて自分がやってしまうのもよくない。そこはじっと我慢しないと人は育ちません。ちなみに僕の店では、皿洗いや鍋洗いは、それだけを専門にこなす派遣スタッフにやってもらうようにしています。
昨年からは南青山と福岡の店では、毎週火曜の定休日に加え隔週で水曜日も休む隔週休2日制を取り入れました。働き方改革はいまやレストラン業界でも必須の課題。週休2日制でないとよいスタッフが集まらないということもあります。ただスタッフが週休2日で店は定休日が1日だけだと、余分にスタッフを抱えなくてはならず、効率的とはいえない。それよりも、思い切って店自体を2日間休んだほうが、光熱費も削減できるし、スタッフにも余裕と集中力が生まれます。いずれレストラン業界も週休2日制が当たり前になる。僕の店はそれを先取りしたんじゃないかと思います。
このアイデアは実は会社(株式会社サカイ食品)の社長を務める息子が言い出したこと。僕は今は会長職ですが、社長を譲ったからには、経営の細かいことはすべて彼に任せるようにしています。僕がいつまでも口を差し挟んでいたら、従業員も混乱するし、会社のためにもなりませんから。
レストラン業界では、同じ料理人が何年も同じ店にいることのほうがまれ。別の刺激を求めて転職したり、独立することはよくあります。そのことを前提に料理人がいつ辞めても大丈夫なように組織として体制を組んでいます。僕も若い頃、同じように転職を重ね、独立したわけですから、巣立っていく人たちは快く送り出してあげたいですね。独立したとはいえ、子弟の関係はずっと続くもの。経営について相談されたときは「自分の館を持つというのは、すべてが自分の責任になるということ。覚悟してやれ。ただし、自分の背丈以上のことは絶対するな」とアドバイスするようにしています。
僕も今年で77歳になります。最近は自分の店だけでなく、他のレストランのプロデュースやコンサルティングもするようになりました。コンサルというのは上から目線では絶対に成功しない。指導するほうもされるほうも、共にWin-Winの関係を作ることが何より大切です。
どういう形であれ、今後もずっと料理の世界に関わっていたい。そのためにはやはり身体が資本。特に料理人にとっては健康は財産の一つですから。病気がちのシェフの作ったものなんて、誰も食べたくないでしょう。今もジムに通ったり、ゴルフ、マリンスポーツなどを続けて常に健康を維持するようにしています。
生涯、「カッコイイ」料理人であり続け、仕事の最前線で活躍するためには、やはり若いときからの基礎づくりや習慣が大切です。私が若いときから一貫してきたのは、仕事を義務としてやらない、常に楽しむ余裕を持つということでした。それから、道具を大切にすることも修業時代に叩き込まれました。それから、お客様ありきのビジネスですから、お客様に礼を尽くすことも欠かせない習慣ですね。私は来店いただいたお客様一人ひとりに礼状を書くようにしました。今でも年賀状替わりの季節の挨拶状は600枚をくだらない。それを自分で書いています。こういうことって、ほんとに基本中の基本。おそらく他の仕事でも同じだと思いますよ。(談)
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坂井宏行
1942年鹿児島県生まれ。17歳でフランス料理の道に入る。19歳で単身オーストラリアに渡り、1年半修業。帰国後、銀座「四季」などで修業の後、「西洋膳所ジョンカナヤ麻布」でシェフを務める。1980年、38歳で独立。青山に「ラ・ロシェル」を開店。1994年からテレビ番組「料理の鉄人」に出演。数多くの対決に勝ち、「最強の鉄人」と呼ばれる。日本の懐石料理を取り入れた盛り付けと、美しい色づかいの料理が特徴。