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プロバスケットボール選手に学ぶ

世界を見てきた男が今も挑み続ける
バスケットへの飽くなき夢

プロバスケットボール選手 田臥 勇太

日本人初のNBAプレーヤー、日本代表など、日本バスケボール界を牽引してきた田臥勇太氏。2016年は待望の「Bリーグ」が開幕。その象徴的な存在としてPR活動に勤しむ一方、リンク栃木ブレックスの絶対的なポイントガードとして、今もコートに立ち続けている。36歳になった田臥氏は、今どんな思いでプレーをし、どんなリーダーシップを発揮しようとしているのか。

Bリーグ開幕の年。リーグ優勝をめざす

田臥 勇太

2016年9月、ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(通称、Bリーグ)が開幕しました。日本最高峰のバスケットボールリーグとして、世界に通用する選手やチームを輩出するのが使命の一つです。併せて地域に根ざしたプロスポーツとして、エンタテインメント性も追求していきます。多くの人にバスケの楽しさ、醍醐味を伝えたい。自分も率先して広告塔の役割を果たしながら、Bリーグの成功に寄与していきたいと思っています。

私が所属する「リンク栃木ブレックス」というチームは、Bリーグの前身にあたるJBL(日本バスケットボールリーグ)時代から全員がプロ契約の選手。JBL2部から1部に昇格した2008年に、私は日本に戻って来たのですが、能代工業時代の監督・加藤三彦さんがヘッドコーチを務めていたこともあり、私の日本復帰の舞台としてこのチームを選びました。

以来、9年目のシーズンを迎えています。

現在はBリーグ1部の東地区で首位争いを繰り広げています。元々地元密着の志向が強いクラブですし、Bリーグ開幕年ということもあって、宇都宮市、鹿沼市など県内の会場はチケットがすぐ売り切れるほど盛況です。ファンのみなさんの熱い熱気を感じながら試合ができています。

チームはJBLの2009-2010シーズンに一度リーグ優勝したことがありますが、今シーズンはぜひともプレーオフに進出し、Bリーグ初代チャンピオンになりたいと思っています。

アメリカン・ドリーム──NBAへの挑戦

田臥 勇太

バスケットボールを始めたのは8歳のときです。その頃からずっと北米のプロバスケットボール、NBA(ナショナル・バスケットボール・アソシエーション)は、憧れの対象でした。高校を卒業するころ、NBAのトップ選手のプレーを間近にみる機会があり、彼らといつか渡り合いたいと思ったんです。

普通の日本人は、身長が2メートルもある人たちが、ものすごいテクニックとスピードでコートを走り回る姿を眼前にすれば、自分はとうてい敵わないと思うかもしれません。しかし、私の場合は、ワクワク感で一杯でした。やれるかやれないかで迷うのではなく、やれるチャンスが一つでもあれば飛びつこう、そんな思いで一杯だったんです。

夢は大きい方がいいし、そのチャレンジは早いほうがよい。臆することなく、ハワイの大学に進み、NBAチャレンジへの準備を進めるようになりました。

2002年に一度日本に戻り、スーパーリーグのトヨタ自動車アルバルクに入団します。そのシーズンの新人王、オールスター・ファン投票1位という評価もいただきましたが、しかし、どうしてもNBAを諦めることができませんでした。

たしかにNBAのハードルは高いです。トライアウトでコテンパンにされたり、大きな選手とぶつかってコートに転がされたことも何度もありました。プレシーズンの試合には出場できても、開幕ロースター(出場選手登録)には残れず解雇されたこともあります。しかし、その苦しさも自分にとってはワクワク感の一つ。楽しい時はもちろん、苦しいときでも、つねにワクワクし続けられること。それが自分のモチベーションの秘訣だと思いますね。

2003年11月に下位リーグのチームと契約し、なんとか試合に出場できるようになりました。そして2004年9月に、NBAのフェニックス・サンズと契約。日本人初の開幕ロースターに選ばれました。長い間の夢が叶ったことは嬉しかったのですが、同時にこれはけっして最終地点ではない。一つの夢を実現したら、すぐに次の夢が膨らむ。ここからが始まりだという緊張感も強かったのを覚えています。

NBAは本当のプロフェッショナルの集まりです。少しでもおろそかなゲームをしたら、次はありません。僕自身、サンズで出場できたのはわずか4試合、プレー時間は合計17分、7得点3アシストにすぎません。開幕からひと月半後にはチームを解雇されました。解雇の連絡はエージェントからの電話一本。チームメイトに挨拶する間もなく、チームを離れざるを得ませんでした。

試合に出ているときも出ていないときも、片時も集中力を忘れない

田臥 勇太

しかしアメリカのプロスポーツ界ではそれが当たり前。契約したから身分を保障されるというような甘い世界ではないのです。私も解雇と聞けばその一瞬は落ち込むのですが、すぐ気を取り直し、自分を使ってくれるチームを探し始めました。そこはみんなドライです。もしそこでグズグズしていたら、他のチームでの活躍のチャンスも、他の選手に奪われてしまいますから。次の舞台を選択するためには、一刻の猶予も許されないんです。

アメリカに単身渡った自分を支えてくれたのは、コーチ、トレーナー、エージェント、そして日本のファンのみなさんです。しかし、最終的には自分がすべてを決めるしかない。こうした厳しいアメリカ修行がまる6年続きました。アメリカでは自分が求めていた、プロバスケットの厳しさと楽しさを共に肌で感じることができました。

何よりNBAの選手は集中力の質、持ち方が全然違うんです。たえず競争にさらされているという環境の中で、自分のモチベーションをいかに保つかを必死で考えています。試合に出たらもちろんですが、試合に出られないときでも、自分が今何をすべきかを真剣に考えている。練習であれ、試合であれ、食事やトレーニングなどによる身体づくりであれ、ケガの治療であれ、自分は何をすべきかを一つひとつ考えて、行動していく。その積み重ねをいとわないことがプロ選手としての必須条件だということを、アメリカでは教えられました。これらは、私の一生の財産になっています。NBAの経験がなければ、今の田臥勇太はない、とまで言い切れるんです。

アメリカでは6年間闘いましたが、後半の3年間はマイナーリーグが中心であまり試合に出られなかったのが残念です。ただ、今もNBAへの再挑戦の夢を忘れたわけではありません。

今年36歳になりましたが、NBAのトップチームで自分はまだできることをアピールしたい。そのためには、どんなチームであれ、常時試合に出ていることが絶対条件です。日本に戻り、リンク栃木ブレックスに貢献しながら、NBAに呼ばれたら、すぐに飛んでいけるように、今もたえず準備を重ねています。

自分の動きに余裕が出てきた。経験値は積み重ねることができる

アスリートに怪我はつきものです。アメリカにいたときも、怪我でプレーできないことは何度もありました。そんなときはやはり焦ります。すぐにコートに立ちたい、ドリブルで相手を抜きたいと、いつもバスケットボールのことばかり考えている自分がいました。プレーができないときほど、どれだけ自分がバスケットを好きか痛感するんです。

ただ、怪我ばかりは気持ちがはやったからといって治りが早くなることはない。怪我をしたからといって落ち込んでいたのでは先がありません。怪我もバスケの一部、というぐらいの気持ちで、自分がいま何をできるか考えたほうがいい。

どんな物事にもネガティブな面とポジティブな面がある。だったら、ポジティブなところだけを考えたほうが、精神的にもいいし、時間も有効に使えると思うんです。これって、ビジネスパーソンの仕事でも同じように言えるんじゃないかと思うんです。

いま私は36歳。若いときと動きのスピードは変わらないとおっしゃってくれる人もいますが、自分では20代のころとは明らかに動きが違っていると思います。

だから自分も考え方を変えました。以前は自分ができることをすべて見せてやろうと、がむしゃらに動いていたように思うのですが、30代後半に入ると、自分のテクニックの見せ方や、心身のコントロールの仕方とかを意識するようになりました。自分一人が目立つのではない。そこでそういうプレーをすることが、チームのためにどう役立つのかということを考えるようになったんです。

田臥 勇太

「熟達」とか「熟練」という言葉がありますが、もしかするとそういう境地なのかもしれません。

若い選手と向き合っていると、かえって自分の無駄な動きをそぎ落とせることもわかりました。スピードに緩急をつけることの面白さもあらためて理解できる。そうなると、バスケットがますます楽しくなります。この味は、自分もベテランといわれるようになって初めてわかったものです。

私に対しては、ファンのみなさんは昔のイメージもあるでしょうが、今の田臥勇太のプレーもぜひ楽しんでほしい。ビジネスもスポーツも同じだと思いますが、歳を重ねることで増やせることがある。経験値は積み重ねることができる。それがわかれば、仕事もスポーツもさらに奥深くなるし、好きになれると思うんです。

コミュニケーションを重ねて若い選手の力を引き出す

バスケットはコート上では5人で闘うスポーツです。他の選手とコミュニケーションをとることでチームが強くなっていく。試合本番はもちろんですが、ふだんの練習のときもたえず言葉を掛け合います。ロッカールームでも戦術会議でも、オフのときでさえも、コミュニケーションは重要。それらを通して一人ひとりの選手の個性や癖、考え方などを理解していることが、一本一本のパスに活きてきます。

選手の中では自分が最年長なので、若い選手と接するときも、まずは相手の意見を聞きつつ、彼らの考え方や意見を引き出すようにしています。

チームコミュニケーションで大切なのは、年齢や経験に関係なく思ったことを言い合える関係づくりです。これは特にアメリカで学んだことです。向こうにはそもそも社会の中に「年功序列」というような考え方がない。たとえ歳が若くても、こいつは自分よりレベルが上だと思えば、どんなベテラン選手でも素直に話を聞きます。その逆も然りです。

私のチームコミュニケーションのスタイルは、自分がポイントガード(PG)というポジションをずっとやってきたこととも関係があると思います。PGはよくチームの司令塔といわれます。「コートの中のコーチ役」と言う人もいる。誰にいつどのタイミングでパスするかを常に考えなければなりません。試合の全体の流れを常に意識していないと務まらないポジションなんです。

PGをやってきたことは、チーム全体のコミュニケーションを密にする上でも役に立っていると思います。相互の人間関係とか、場の雰囲気や流れとかを、自然に読めるようになるんですね。その上で選手一人ひとりの良さを引き出す会話を心がけています。

監督が外国人だし、チームの中にも外国人選手がいます。監督の指示は優秀な通訳者がいてすぐに日本語でも伝わりますが、私はそれにプレーヤーとしての経験とアメリカで学んだ英語力をつけ加え、相互の橋渡しがもっとスムーズになるようにサポートしています。

情熱と哲学。それを押しつけず、選手と共にチームを創造する──よきリーダーの条件とは

田臥 勇太

これまで自分が指導を受けてきた監督・コーチのことを振り返ると、まずみんなに共通するのはバスケットが大好きで、それに対するとてつもない情熱をもっていたことです。

監督やコーチによってそれぞれスタイルがあると思いますが、私の師匠たちは、自分のバスケットスタイルについて一家言を持ちながらも、それを押しつけたりはしなかった。選手と一緒に自分のスタイルを作り上げていく、というタイプの監督が多かったように思います。

選手や監督としてどんなに実績がある人たちでも、たえず対等の目線で選手と接し、選手の自由を尊重してくれた。バスケットは最終的には選手一人ひとりの創造性が勝利のキーになるスポーツです。型にはめようとする指導だけでは限界がある、ということを皆さんわかっていらっしゃったのだと思います。

自分はまだまだ現役を続けます。将来、指導者になるかどうかはまだ決めていません。ただ、どんな立場であれ、チームを引っ張るよきリーダーではあり続けたいと思います。そのための条件が、いまお話ししたようなこと──バスケットへの情熱と哲学がしっかり自分の中にあって、なおかつそれを押しつけない。一人ひとりの創造性を引き出してチームを強くできること、だと思っています。

今シーズンの目標はB1リーグ東地区のレギュラーシーズンで優勝してプレーオフに進出し、そこでBリーグ初代チャンピオンに輝くこと。そのために自分ができることはすべてやりきるつもりです。そして3年後には東京にオリンピックがやってきます。そのときは日本代表として必ずコートに立っていたいと思います。(談)

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田臥勇太(たぶせ・ゆうた)

1980年生まれ。リンク栃木ブレックス所属。8歳でバスケットボールを始め、名門・秋田県立能代工業高等学校に入学後、3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の3タイトルを制し、史上初の9冠を達成。2003年11月からアメリカ独立リーグに参戦すると、2004年9月、NBAフェニックス・サンズと契約、日本人初のNBAプレーヤーとなる。2008年8月に国内復帰し、JBLのリンク栃木ブレックスに入団。

(監修:日経BPコンサルティング)