著名人から学ぶリーダーシップ著名人の実践経験から経営の栄養と刺激を補給

元プロ野球選手に学ぶ

「球道即人道」──野球人として人として、
我慢を力に変えてきた

元プロ野球選手 立浪 和義

2009年、惜しまれながら中日ドラゴンズを引退した立浪和義氏。その後は、解説者として野球に関わるほか、2013年のWBCでは打撃コーチを務め、幅広い視点から野球を考察するようになったという。現役最後の頃に代打が多かった時の話や、これからの日本野球界を背負う逸材などについて伺った。

いい選手は早く使い、トップレベルの野球に慣れさせる

野球を始めたのは小学生の頃ですが、その頃からプロを目指していたわけではないんです。PL学園高校時代に甲子園で優勝できたので、プロから声がかかりました。最初は2軍で体づくりからと思っていたら、1年目から2番・ショートでスタメンに抜てきされました。第3打席で初ヒットの二塁打。そして、引退試合の時の最後の打席も二塁打。結果的に、通算487本の二塁打は日本記録となりました。

高卒ルーキーをすぐに使ってくれた当時の星野仙一監督には感謝してもしきれないものを感じています。「いい選手は早く使い、トップレベルの野球に慣れさせる」という考え方を当時からお持ちでしたが、それにしても、よく決断されたと思いますよ。

星野さんはとても厳しい監督で、ベンチでもよく怒っていました。しかし、その後はちゃんと褒めてくれる。その使い分けが絶妙なんです。そういう人心掌握に長けた監督に、プロの1年目で出会えたことは幸いでした。「ユニホームは戦闘服だ」という言葉に象徴されるような、勝負に対する厳しさを星野さんに植え付けてもらったと思います。

早朝の落ち葉掃きで徳を積む。若い時に我慢する訓練が大事

元プロ野球選手 立浪 和義

私が22年にわたってプロ生活を送れた下地は、PL学園時代に培いました。甲子園では大観衆を前にして野球をやりましたし、厳しい練習や寮生活でもまれたからこそ、プロに入っても、物おじすることなくプレーできました。中日では選手会長を務め、その後も日本プロ野球選手会の理事長、労働組合の副会長などを経験しました。リーダーシップについてよく聞かれますが、それを培ったのもPL学園時代でした。

PL学園には各地方の中学で野球がうまかった選手ばかりが集まってきます。みんなお山の大将。ささいなことでケンカばかり。ただ、厳しい練習と寮生活にもまれるうちに、カドが取れて、チームとしてのまとまりが出てくる、そういう雰囲気がありました。また、PL学園は伝統的に部員の投票と監督の判断でキャプテンを選ぶことになっているんですが、2年生の時にキャプテンに選ばれてから、自分のことだけでなく、周りのことも見られるようになりました。

寮生活では上級生の汚れたユニホームなどを下級生が洗濯するという習慣があるんですが、阪神や日本ハムで活躍した同期の片岡篤史が入った頃は要領が悪く、洗濯をするのが深夜になっていたんです。「寮生活が嫌になって逃げ出すんじゃないか」といつも心配でした。ある時、「悩むぐらいだったら、一緒に朝、落ち葉掃きをしないか」と誘ってみました。そして毎朝、5時半に起きてグラウンドの周りを清掃しました。

たとえ結果が出ない時も、自分が決めたことをコツコツとやり通すこと。そのうち自然に無心な気持ちになるものです。人の嫌がることを率先してやることで徳を積むという、それはPL学園の教えにも沿うものでした。やはり我慢、忍耐、実行力が人をつくり、それが結果的にスポーツでも力を発揮する源になるのだと思います。

思い返せば、私はよき指導者に恵まれました。当時のPL学園の中村順司監督もまた、座右の銘に「球道即人道」という言葉を挙げるほど、人づくりということを真剣に考えておられる監督でした。選手はユニホームを脱いだ時も、きちんと挨拶できる人でないといけない。人として爽やかでないといけない。監督の言葉は、現役を引退した今も、私の中に宿っています。

寮生活では先輩たちに理不尽にしごかれることもありました。理由なくしごくというのはよくないことだけれど、一方で、礼儀作法の厳しさや、最低限の生活習慣は必要だと思います。

能力的に優れていても、プロに入ると意外と伸びない選手もよく見てきました。若い時に厳しい環境に置かれていたかどうかが、その分かれ目になるのかもしれません。若い時に我慢する訓練をしていないと、何かあるとすぐに壁にぶつかってしまう。野球以外の世界はよく知りませんが、恐らく企業でもこれは同じだと思います。

自分の気の緩みからライバルにチャンスを与えてはいけない

元プロ野球選手 立浪 和義

プロに入り、投球や打球の速さについていけないということはなかったのですが、1年で130試合以上をこなす体力は不足していました。それを強化したことが、3年目以降の結果につながります。もちろん、22年の現役生活、いい時も悪い時もありました。プロ10年目ごろには、チームが最下位でシーズンを終えたことがありました。

その年、オフの時に慰問で障がい者野球の大会にゲストとして参加させてもらったことが、大きな転機を生みました。体が不自由なのに、一生懸命野球を楽しむ人々がいる。自分も甘えてはいけない。1試合、1試合、どんなにつらくてもやりきるのがプロだ。それをきっかけに2000本安打という自分の目標が明確になりました。

プロの世界の競争は激しい。特に野手の場合、ケガで1週間休んだら、すぐにポジションを取られてしまいます。私もケガは多い方だったけれど、痛みに強い方なのか、我慢して出場することが多かった。自分の気の緩みから、ライバルにチャンスを恵むことなかれ。これは会社でも野球でも、競争の厳しい世界では大切な心構えだと思います。

まず試合に出ることを一番の目的にして、心身共にいい状態を保つためにはどうすればいいのか、それを考えながら練習や生活をしてきました。基本は、酒は飲まず、睡眠をよく取ること。自分の打撃や守備の型を早く見つけること。複雑に考えずに、シンプルにやること。そして、精神的には常にハングリーであり続けること──それがプロ生活を長く続けることができた最大の理由だと思います。

現役最後の3年間、代打としての起用が自分の野球観を広げてくれた

元プロ野球選手 立浪 和義

40歳になるまで長くプロ野球選手として現役でやっていると、今までできていたことが、できなくなるという時期が必ずやってきます。若い時のビデオを見てその通りにやっても、体がついていかない。それでますます焦ってしまう。そこでフォームを崩して、結局30代で引退する選手もたくさんいます。

ただ、私の場合は、ボールを打つというのはどういうことかを、常に基本に立ち返ってシンプルに考えるようにしていました。あれもこれも考えるとかえって萎縮してバットが振れなくなる。せいぜいステップの踏み方、足の開き方など1つか2つだけを注意する。シンプルに考えるということは、実は大変難しいことなんですが、そうしないと長く続けることができないのは確かだと思います。

それでもプロとしての最後の3年ぐらいは、なかなかスタメンに入れず、代打で起用されることが増えました。引退を決めた2009年も本拠地最終戦まではずっと代打でした。

ただ、控えとしての経験をさせてもらったことは、プロ野球選手としても社会人としても、よかったことだと思います。レギュラーの時は代打の人の気持ちが分からなかった。「1試合に1打席出ればいいんだから楽じゃないか」、なんて軽く考えていました。しかし、いざ自分がそういう立場に立つと、そこで打てなかった時のファンのため息はスタメンの選手の比ではないんです。それだけ期待もされているし、その分落胆も大きい。

だから、最後の3年間は1打席打つために必死になって練習しました。ゲームの流れを読みながら、いつ呼ばれてもすぐ出られるように準備していました。

セ・リーグで監督が采配する時に、一番難しいのはピッチャーの交代と切り札の代打を出すタイミングです。代打として使われながら、よく監督の心境を想像していました。そのことが自分の野球観をより豊かにしてくれたんじゃないかと思います。時には、そろそろだと思って、呼ばれてもいないのにネクストバッターズサークルに歩み寄ったりしたこともありました(笑)。いずれにしても、代打を経験することで、全盛期の輝いていた時よりも、1打席の意味を深く考えるようになれたんです。

たとえ引退したとしても、ずっと何らかの形でユニホームは着ていたいと思っていたので、最後の3年間は試合中に気づいたことを細かくノートに取るなど、指導者としての準備を始めていました。現在の野球解説者としての仕事も、これからの自分に大変役立っています。外から野球を見ることができるし、監督や選手の比較ができるようになります。

毎日の「仕事」を面白くするためにも、我慢と努力が欠かせない

元プロ野球選手 立浪 和義

野球選手も企業のビジネスパーソンも、そこに必ず上司がいるという点では同じ仕事です。若い社員は仕事のことをよく知らないので、厳しく教える上司の役割はこれからも変わらないと思います。その厳しさを曖昧にしてはいけないと思います。

一方で、若い社員の側も「石の上にも3年」くらいの気持ちで、我慢することを覚えてほしいですね。そこが最近は難しいでしょうし、企業の中にもじっくり3年かけて育てるという余裕がないのかもしれませんが。

もちろん、最初の3年間は上司に言われるままのことだけをやっていればいいんですが、その後は自分なりのアイデアが必要です。仕事は毎日同じことの繰り返しに見えるけれど、自分なりのアイデアを活かせば、もっと面白くなる。これも、野球と一緒ですね。

高校を出てプロになった時、「毎日野球の試合をやらなければならないんだ」と思いました。まさに野球を仕事として選んだんだと。だったら、その仕事を自分で面白くして、それを自分の得意にしないと意味がない。それができるようになるためにこそ、日々の練習や研鑚が欠かせないと思うんです。

私が会う企業のトップは、独自のアイデアをものすごいスピードで実践している方が多いです。もちろんそういう方々は成功されています。伸びる人は野球選手もビジネスパーソンも同じなんだと感じましたね。

2017年のWBCに向けて、この選手に注目したい

引退後、2013年に行われたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表の打撃コーチを務めました。WBCへの選抜は名誉であると同時に、選手の視野を広げてくれます。米国や中南米の選手のパワーは想像を絶するものがあります。キューバの選手などは決していいグラウンドで練習しているとは思えないんですが、凸凹のフィールドでボールを処理するから自然とうまくなるんじゃないかと思います。それに、野球で食べていくんだという強烈なハングリー精神は、私たちが学ばなければいけないものですね。

一方で、WBCでは日本選手のテクニックが世界で通じるどころか、群を抜いていることも証明しました。

2017年には第4回のWBCが予定されています。その頃に中軸でどんな選手が活躍するのか楽しみですね。昨シーズン一番の成長株で私が注目しているのは、東京ヤクルトスワローズの山田哲人内野手でしょうか。3年後には必ず侍ジャパンの上位打線で活躍する選手になると思いますよ。

2014年の日米野球(侍ジャパン強化試合)でも、次のWBCを占うようないい試合がありました。金子千尋選手(オリックス・バファローズ)、前田健太選手(広島東洋カープ)、大谷翔平選手(北海道日本ハムファイターズ)ら投手の活躍が目立ちました。ペナントレースはもちろんのこと、WBCや日米野球でも、若手が活躍すればもっと日本の野球が盛り上がります。ぜひ頑張ってほしいと思います。(談)

スポーツ編 一覧へ

元プロ野球選手
立浪 和義(たつなみ・かずよし)

1969年大阪府吹田市生まれ。PL学園高校を経て、1987年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。通算2480本安打のほか、二塁打最多記録など数々の記録を持つ。中日一筋の選手生活でファンからは「ミスタードラゴンズ」と呼ばれた。2009年に現役引退後は、WBC日本代表の打撃コーチを務める。現在は、野球解説者として活躍。

(監修:日経BPコンサルティング)