著名人から学ぶリーダーシップ著名人の実践経験から経営の栄養と刺激を補給

元プロ野球選手に学ぶ

27年間のプロ野球人生。
勝負師として貫き通した野球へのこだわり
~リーダーの自覚。田尾・野村両監督から学んだこと~

スポーツコメンテーター、元プロ野球選手 山﨑 武司

オリックスから戦力外通告を受けても、なお現役続行を志した山﨑武司氏。36歳で移った楽天では「ここでダメなら野球をやめる」という不退転の決意で、バッターボックスに立っていた。この中堅選手からさらに恐るべきパワーを引き出したのは、田尾安志、野村克也という二人の監督。その出会いを語ってもらった。

27年間のプロ野球人生に終止符。ただ勝負事は諦めない

2013年のシーズンを最後に引退しました。体力的にはまだできたと思うんですが、なかなか長打が打てなくなったし、ファンの前でみっともないことはできないなという思いもあったので。特に私の場合は、38歳で史上3人目の両リーグでの本塁打王、41歳のシーズンで史上最年長の100打点を達成するなど、40歳前後でも頑張った選手として記憶してもらっている方も多いと思うんですが、そろそろこのあたりが限界かなと。現役生活27年、44歳で現役生活に終止符を打ちました。

ただね、長年勝負の世界にいましたからね、今でも血が騒ぐんですよ。解説をやっていても、ほんとはグラウンドにおりていきたいぐらい。勝負事が好きな自分が、新たにチャレンジするスポーツとして選んだのが、カーレースです。カーレースは野球以上に自分のメンタルをコントロールしなければ命にかかわるスポーツ。しっかりと準備して臨もうと思っています。

一軍の2年間で天国と地獄を経験。自己分析ができていなかった頃

スポーツコメンテーター、元プロ野球選手 山﨑 武司

私が27年もの間、野球を続けてこられたのは、ひとえに体が強かったからです。普通はけがで辞める選手が多いんですが、私の場合、デッドボールを受けて骨折したというのは何度かあるけれど、肉離れや腰痛とか、筋肉系の故障はほとんどなかった。だからやってこられました。

1986年、ドラフトで中日ドラゴンズに2位指名を受け、プロ野球選手としての生活を始めることになりました。ただ、中日に入団後は、9年間、なかなか一軍に定着できなかったんです。それでも、チャンスをもらったらいつだって打てるよと、根拠なき自信だけはありました。実際、二軍でホームラン王を取ったりしてましたしね。

ポジションを変えて一軍に定着した1996年には、ホームラン王、月間MVP、オールスター出場など華々しく活躍しました。ところが、その次の年には成績はガタ落ち。今度は恐怖心が先に立ちました。自分の地位を落としたくない、給料を下げたくない、ファンにも見放されたくない。そういう思いが強くなって、気持ちが小さくなっていました。それこそ、天国から地獄へ、一軍の最初の2年間にいっぺんに体験してしまったんです。それがかえってよかったと、今では思っているんです。妙なうぬぼれが取れましたから。

そもそも、練習というのが大嫌いな性格でね。団体競技というのも実は苦手。若い時は、チームはいいよ、俺が打てればという感じで、自分のポテンシャルだけで野球をやっていたようなところがありました。「もしかして俺って、長嶋茂雄さんのように天才的な才能で打てちゃうタイプ?」なんて思い上がっていたものです(笑)。

もちろん練習はするんですよ。でも「やらされている」という感じがずっとありました。頭の中で、練習の意味を解釈できないままに何となくやっているんです。一軍でプレーするようになってからは、自分で考えて、練習メニューを選択するようにはなりましたが、今から思えばまだまだ考えが甘かったですね。

特に、ダルビッシュ有や田中将大のような若い時からメジャーリーグを目指すような選手と比べると、意識の差は段違いだったと思います。だから今、若い選手にアドバイスする時は、「自分で自分のことをしっかり分析しろよ。自分の長所・短所に早く気づけよ」と言います。いかにそれに早く気づくかで、その後の伸びしろが全然変わってきますから。

常に先頭に立つのがリーダーの条件

スポーツコメンテーター、元プロ野球選手 山﨑 武司

30歳を超える頃には、多くの選手に転機が訪れるようになります。球団の中でも中堅という扱いになって一目置かれるようになります。実績を出している選手であればあるほど、相手に対する威圧感のようなものも出てくるようになる。すると、自分の顔でこのままずっと通用するように思ってしまうんですね。数年間はそれでいいんです。ところが、相手も研究しますからね。打者だったらだんだん打てなくなる。投手も威圧感だけでは勝負できなくなる。

特に、35、6歳の頃が危険ですね。自分の体力はもはや20代のそれではない。ところがプライドだけは強いから、自分の体力が落ちていることを認めたくない。これって、会社の中でもあるんじゃないですか。いや、企業そのものが、一度成功しちゃうとその成功体験にしがみついて、新しい市場や製品を生み出せなくなるっていうこと、よく聞きますよね。

私ももっと早くそのことに気づければよかったんですが、結局、中日からトレードに出され、その後のオリックスでも戦力外通告され、新規参入の楽天に拾ってもらうまで、気づかないままでした。35、6歳で、田尾安志監督と出会い、さらに次の野村克也監督に見出されて、初めて自分の野球ということを考えるようになったんです。

球団を3つ、4回移り替わって、いろいろな監督やコーチとの出会いがありました。監督室にバットを放り投げ、ゼネラル・マネージャーに訴えたなんていう武勇伝も残っています。カッとしてやったことではありますが、ただ、上司に逆らうわけですからね、これをしたら自分はクビになるだろう、野球ともおさらばだ、という覚悟みたいなのはあったんですよ。

これはね、監督と私の一種の野球観の対立なんです。私は、自分の意見を殺してまでも、野球をやりたくはない。特に上司である監督とはね、基本的に野球観で一致していたいんです。僕らは野球という"戦争"をしているわけですからね、上官が途中でころころ命令を変えたり、最前線に若い人を送って、自分だけ逃げて帰るというのじゃ、やってられないじゃないですか。

先頭に立つのが監督の条件。カリスマ性がないといけません。その人が来た時に周囲の空気がピリッとする。言葉では難しいんだけれど、空気が変わって、さあみんなやってやろうじゃないかという気持ちにまとまる瞬間があるんです。そういう雰囲気を持ち合わせることが監督には必要だな、と思うわけです。

もはや崖っぷち。背水の陣でフォーム改造に取り組んだ

スポーツコメンテーター、元プロ野球選手 山﨑 武司

オリックスでは二軍落ちを何度も経験し、2004年シーズンが終わる頃には球団から戦力外通告を受けました。しかし、2005年からパリーグに新規参入する東北楽天ゴールデンイーグルスから誘いがあり、田尾安志監督の下で野球を続けることになりました。

かつてはホームラン王やリーグ最高長打率、ベストナインに選ばれましたが、すでに36歳。新人なら1シーズン失敗しても翌年に期待してもらえるけれど、ベテラン選手にはそれがないんです。成績を維持しただけではダメ。上がらないとこの世界では生きていけない。私も仙台で1年頑張って、それでダメならやめようかと思っていました。

もう崖っぷちなんです。何かを変えるしかない。オリックスの頃からバッティングのフォームが崩れていることは自分でも分かっていましたから、それを正直に田尾監督に話しました。すると、まるで小中学生にでも話すように、「もっとボールを引きつけて、体重を移動させながら、乗っかかるようにして打て」と、基本中の基本みたいなことを言うんです。

私は素直に聞きましたね。当たり前のことを当たり前にやるのが、実は小中学生でもプロ選手でも難しい。何でもいいから、一つだけは正しいことをやろう、かたくなにそれをやり続けよう、それを続けてダメだったら、もう野球をやめよう──そのぐらいの気持ちでした。

キャンプの時はまだ調子が上がりませんでした。でも、続けていると、5月頃から徐々に調子が上がってきたんです。結局、2005年はチーム最多の25本塁打を記録。田尾監督の指導によるフォームの改造が、楽天時代に好成績を残すことができるようになった要因の一つだと思っています。

野村監督との最初の出会いは最悪。しかし、相性が合った

スポーツコメンテーター、元プロ野球選手 山﨑 武司

次の年に、野村克也監督が就任しました。私にとって、プロ野球での後半のキャリアを決定づける、もう一つの重要な出会いでした。野村監督については、本(『野村監督に教わったこと』講談社)にも書いているけれど、最初の出会いは、もう最悪でした。細かいことをネチネチ言うし、なんだこのクソオヤジっていう感じ(笑)。試合の時にスタジアムに入るでしょ、それで私がちょっと目をそらすと、「おい、俺のほうを見なかったな」とか言われるんですよ。実によく選手のことを観察している。怖いぐらい。

こちらもポッと出の新人じゃないからね、最初の頃はお互いにけん制し合うという感じでした。でもね、いやいや付き合ううちに、情に厚い人だなと思うようになりました。ID野球とかクールな判断とかよく言われるけれど、実はとても人間味のある方なんです。ベテラン選手を褒めることはめったにないけれど、それでも私がこれまでやってきたことには敬意を払ってくれました。

監督との相性というのはもちろんありますよ。監督が代わったとたんに、成績が上がる選手もいるし、そうでない選手もいる。私と野村監督は結果的に相性がよかったんでしょうね。

「意識が行動を変える、行動が性格を変える、性格が人生を変える」という野村監督の言葉があるんですが、その意味がだんだん分かってきました。自分も意識を変えなくちゃいけない。野球という職業と真面目に取り組まなければ、決して成果は返ってこない。36歳にして初めて悟りが開けたような思いでした。

ベテラン選手としてチームをけん引。戦闘心あふれるリーダーの自覚

スポーツコメンテーター、元プロ野球選手 山﨑 武司

プロ野球選手ですから、野球を中心に日々の生活を考えることは当たり前なんですが、私は30半ばまでそうじゃなかった。中堅になっても、チームをまとめるなんて面倒くさいと思うような人間でしたね。

でも、野村監督からは、中軸でやっている選手がチーム内でリーダーシップを発揮しないでどうするんだと言われました。それでやってみると、今度は周囲が変わるんです。球団からも期待され、チームメートやファンにも期待されるようになる。みんなから期待されれば、やりがいも出るし、普段以上の力も出るようになります。

楽天時代は「俺がこけたらみんながこける。俺が何とかするから、みんなついてこい」──そんな戦闘精神あふれるタイプのリーダーを一生懸命やっていました。会社組織でも、ちょっとマンネリ気味になっている中堅社員をどう使うかというのは難しい課題だと思います。けれど、ひとたびリーダーとしての自覚が生まれれば、やはりベテラン・中堅といわれる社員はものすごい力を発揮すると思いますよ。

若い選手からの相談にもよく乗るようになりました。「山﨑さんはなんで40歳をすぎてもあんなにボールが飛ぶんですか」とよく聞かれました。誰にでも通用するコツがあるわけじゃない。打撃はそれぞれの選手ならではの感覚がありますからね。ただ、これをやってはいけないよ、ということだけははっきりしている。ボールを最後まで見ていないとか、基本中の基本ですが。意外と自分で気づいていないことを指摘するようにしました。

楽天には創立時からいたので思い出がたくさんあります。2011年の震災の時は復興支援のリーダーもさせていただきました。7年連続の2桁本塁打も達成したその年に、退団しました。退団の折にはコーチ就任の話もあったんですが、自分には功労賞のようなポストだと思えてすぐ断りました。まだまだ自分で道を切り開けると思ったので現役を続行。再び中日で仕事をさせてもらうことになりました。

今は解説者として野球を客観的に見ています。最近のプロ野球は情報戦という面が強く、昔のようにラッキーパンチのような感じでホームランが出て、それで試合が決まってしまうというドラマチックな展開が少なくなりましたね。でもね、昔を懐かしんでいるだけだとこの先はないと思うんです。時代の変化にどう対応するのか。例えば、野球が世界にもっと普及していくためには、サッカーのようにコーチや監督のライセンス制度を導入してもいいのではと思っています。私もいずれは指導者になりたいので、もしライセンス制度が導入されたら勉強するのは大変だと思うけれど、でも、まだまだチャレンジしていきますよ。(談)

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スポーツコメンテーター、元プロ野球選手
山﨑 武司(やまさき・たけし)

1968年、愛知県生まれ。愛知工業大学名電高等学校時代、通算56本塁打を放つ。1986年、中日ドラゴンズ入団。1996年、初の本塁打王。2003年、トレードによりオリックス・ブルーウェーブに移籍。2004年、戦力外通告を受ける。一度は引退を考えたが、東北楽天ゴールデンイーグルスに入団し、2007年、本塁打王・打点王に。2012年のシーズンからは古巣の中日ドラゴンズでプレー。2013年に引退。現在はスポーツコメンテーター。

(監修:日経BPコンサルティング)