人は必要な情報の9割近くを視覚から得ているといわれるが、失明した患者がぼんやりとでも光を取り戻せたら、それはどんなに大きな一歩だろう。
臨床研究真っただ中であり、実用化も間近だといわれている失明患者向けの「人工網膜」研究の最前線を追う。
厚生労働省によって難病に指定されている網膜色素変性は、緑内障、糖尿病網膜症とともに、日本人が後天的に失明する三大原因疾患のうちの一つである。 網膜内で視覚情報を受け取る「視細胞」が変性し細胞死することで、失明や視野狭窄など重い視覚障害を引き起こす病気で、根本的な治療法は確立されていない。
網膜色素変性の患者は日本国内で約10万人、世界では500万人以上とされているが、その患者の一人で視力をほとんど失ったある日本人女性は、人工網膜の臨床研究で、完全ではないものの視力を取り戻すことができた。
「ぼんやりと家族の姿が見える」、「光をかざした手の指の本数がわかる」。きちんと「見える」わけではないが、患者のQuality of Life(QOL、生活の質)という視点で考えれば、これはかけがえのない一歩である。
人工網膜にはいくつかのタイプが存在する。2013年ごろアメリカでは「アーガスⅡ」という人工網膜デバイスが認可を受け、すでに200人以上が使用しているといわれる。眼鏡に取り付けた小型CCD(電荷結合素子)カメラの画像データを、ケーブルを経由して画像処理装置に送信し、「こう見えている」という視覚情報に変換する。その視覚情報は画像処理装置から網膜に接触するように植込んである電極へ送られる。網膜は直接電極によって刺激され、ぼんやりと光が見える程度には視力が回復するというものだ。だが、電極が網膜に接触しているため、網膜を傷つけるおそれもあり、安全性には疑問が残る。
冒頭の女性が使った人工網膜は、大阪大学の教授らが研究を進めるもので、いわばアメリカ方式の改良版だ。小型CCDカメラの映像を脳内に届けるという構造は同じだが、小さな電極チップは網膜の外側にある強膜部分に植込む。電極チップは視細胞のように脳に視覚情報を伝え、脳内では映像が再現される、という仕組みだ。
この人工網膜で再現される映像はモノクロだ。黒い背景に白い点の集合体が見えるような感覚だという。臨床研究では、失明患者が白線に沿ってまっすぐ歩いたり、テーブルにある箸と茶碗を見分けたりすることもできた。見え方の改良も望まれるが、電極チップを大きくすると装置が大掛かりになってしまうため、電極チップの小型化やチップ内の電極の密度を上げる研究も進められている。
今年度からは実用化に向けた治験が進められるという。
別のチームでは、また違ったアプローチで人工網膜の研究開発に取り組んでいる。
岡山大学の医工連携研究グループが開発した人工網膜OURePTMは、ポリエチレンの薄い膜の形状。この薄膜には光を吸収して電位差を出力する光電変換色素分子を化学結合しており、光(視覚情報)を受けて電位差(変位電流)を出力する。その刺激によって、近傍の視神経が活性化される仕組みだ。
実際、網膜色素変性で失明したラットにOURePTMを植込んだところ、動く白黒模様を目で追う仕草を見せるなど、視力の回復が確認できた。また、OURePTMの部材として使用されている光電変換色素を、まだ視細胞が残存しているラットの眼球に注射したところ、網膜視細胞死(アポトーシス)が抑制される効果があることも明らかになっている。
さらにこの薄膜の人工網膜は、体内に入っても毒性がなく、安全性が高い。薄く柔らかいので、小さな切開創から大きなサイズ(直径10mm大)のものを丸めて植込むことができ、患者の肉体的な負担も少ない。原材料が安価なのもメリットだ。
大きなサイズの薄膜なので得られる視野が広く、電極チップで再現される映像よりも、理論上は、網膜本来の解像度を再現できると見込まれている。実用化を見据えた治験実施に向け、さらなる臨床試験を行っていくという。
日本眼科医会は「失明患者は低いQOLのまま生き続ける」と、失明が失明患者の生活にもたらす負の連鎖を指摘する。常に転倒や転落の危険性があり、日常生活機能が低下することに加え、仕事に就きづらい等の経済的な要因も重なるからだ。
人工網膜という最先端医療の進歩は、失明患者の生き方にも大きく関わってくる。だからこそ、より快適に、より見える人工網膜を追求し、日々試行錯誤されている。こうした知恵と技術を結集させる日本人らしいものづくりが、結実する日を待ちたい。