NHK大河ドラマ「真田丸」を見ながら
~戦国武将の生き残り戦略を考えてみた~

情報化モデルとICTを巡るポリフォニー [第12回]
2016年3月

執筆者:NPO法人 地域情報化推進機構 副理事長
ITエバンジェリスト/公共システムアドバイザー
野村 靖仁(のむら やすひと)氏

NHK大河ドラマ「真田丸」を見て

NHK大河ドラマ「真田丸」が好調です。昨年の「花燃ゆ」では視聴率が低迷し、近年は苦戦を強いられていましたが、ことしの「真田丸」では、BSプレミアムの視聴率が上昇するなど、いまのところ堅調を保っています。

日曜日の午後8時にNHK総合で放送される「真田丸」ですが、その2時間前の午後6時から放送されるBSプレミアムでは、初回3.3%から回を重ねるごとに視聴率が上昇し、好評であった前々回の「軍師官兵衛」の平均視聴率と比較して、1.5倍~2倍ほどの高い数値で、BSの視聴率としては高水準をキープしています。

ネットでは、NHK総合放送を「本丸」、2時間早く見ることができるBSプレミアムは「早丸」と呼ばれていますが、「早丸」でまずは物語の展開を楽しんで、その後「本丸」でゆっくりとセリフ回しや役者の表情などを楽しむファンが多く、BSプレミアムで一足早く放送を見て、その後にSNSで感想を発信し合って盛り上がる、パブリック・ビューイング的な視聴形態が定着しつつあるようです。

NHKでは、朝ドラ「あまちゃん」のBSプレミアムでの全話平均視聴率が5.5%を記録して話題になりましたが、「真田丸」の三谷さんと「あまちゃん」の宮藤官九郎さんに共通する、脚本作家がもつ独特の個性の強さがありますので、同じような傾向を示しているのでしょうか。

番組タイトルの「真田丸」は大坂の陣(冬の陣)の際、「真田信繁(幸村)」が大坂城の平野口に築いた「出丸」の名称ですが、このドラマでは、その「真田丸」の名をタイトルに用いることで、親子二代「父 昌幸」、「嫡男 信幸」、「次男 信繁(幸村)」を中心とした真田家の一族を舟に例えて、戦国の世を生き抜く壮大なストーリー展開を目指しているようです。

真田家の物語と言えば、私の年代では1985年に放送された「真田太平記」(NHK新大型時代劇)を思い出しますが、このドラマで「真田信繁(幸村)」に大きな影響を与える偉大な父親の「真田昌幸」を丹波哲郎さんが強烈な存在感で豪快に演じています。

そして、この時に「信繁(幸村)」役を演じた草刈正雄さんが、今回の「真田丸」では、父親の昌幸役をされていますので、往年のファンには感慨深いものがあります。

なお、少しうんちくを語りますと、当時は制作費の高騰によりNHKは大河ドラマでの時代劇路線を3年間休止したため、時代劇ファンへの救済策として水曜日夜8時に「NHK新大型時代劇」の枠を設けて「真田太平記」が制作されました。

そのためか、今回の「真田丸」では「昌幸」が策を練る時にクルミを手のひらの中でカリカリと音を立てて転がす仕草や、家臣と囲碁をしながら作戦を考える場面など、1985年の「真田太平記」に対するオマージュのようなシーンが随所にあり、テレビを見ていて思わずニンマリとしてしまいます。

地域のリーダーとして地域の存続を図るには?

さて、この「真田昌幸」については、豊臣秀吉をして「表裏比興(ひきょう)の者」と評されるほどの軍略に優れた知将として知られていますが、ここで言う「表裏比興の者」とは、発言がコロコロと変わる「老獪(ろうかい)な、食わせもの」という意味の秀吉一流の褒め言葉であると解釈されています。

この時代、「昌幸」が信濃(現在の長野県)の一地方の小領主として戦国の世を生き残るためには、あらゆる策を講じて対応していく戦略が必要であり、これを現代に置き換えて考えると、昌幸の奮闘する姿が大手企業に対抗して戦う、中小企業の経営者のように見えてきます。

これを、ビジネス的な観点から見ると、戦国時代という極限の状態において、目まぐるしく状況が変化する「不確実性」の中で、武将たちが地域の「リーダー」として、地域住民である「家臣」や「領民」たちとともに、地域の存続を掛けてどのような戦いを繰り広げるのか興味は尽きません。

「真田丸」第5話で、「昌幸」は地域のネットワーク(情報の流通)を独占する行動に出ます。「本能寺の変」の後、明智光秀からの密書を届けた使者を自陣に拘束し、他の国衆へ密書を渡さない(情報が流れないよう)情報フローの独占を試みます。
ドラマの中では、都からもたらされる重要な情報は真田家を経由しないと他の国衆に伝わらないことを誇示することで、真田が地域の中心であり、「昌幸」が都からの情報フローをコントロールする権力を持っていることを示す場面が印象的です。

そして、つぎの第6話で「昌幸」は、情報フローにおけるコントロール権の確保だけではなく、信濃という地域が持つ環境面における特性、地理的・物理的な中心性に気づき、独立独歩の道を歩むことを選択します。

信濃には地域資源(材木、水など)があり、街道が交差し、物流経路としての水路も確保できることから、人とモノが交流する地理的ネットワークの要であり、その地域を領土とする真田は、情報・人・物流ネットワークをコントロールできる「権威」を握ることができ、それを背景とすることで、マイノリティの小国でありながら、大国と互角に渡り合える力を持つことに「昌幸」は思い至るのです。

このような状況は、関ヶ原の戦いにおける小早川家の動向や、政治の世界で少数政党が政権政党と連立を組むなど、マイノリティがどちらに付くかで、大勢が決まるような状況を作り出すことで、マイノリティの側がキャスティングボートを握る事例として既にご存知のとおりです。

そのためには、情報を正確に分析・評価できる能力と、それをもとに意思決定する知略が必要になりますが、今回の「真田丸」では、真田家親子二代が戦国時代を生き抜いていく物語を描くことで、現代を生きる我々が仕事や人生の局面において、どのように思考し行動すべきなのか、多くのヒントが得られると期待しています。

過去の歴史ドラマ・時代劇では、有名な戦国武将をスーパーヒーローのように「英雄譚」として描くことが多く見受けられますが、これまでの「真田丸」を見るかぎり、そのような描写はなく、戦国武将が悩み苦しみ「意思決定」する姿を、脚本の三谷幸喜氏は独自のコミカルなタッチを交えて、巧みなストーリーテリングで表現しています。

現在のようなメディアもインターネットもない時代に、限られた情報の中から今なにを成すべきか考え、不確実性の中で戦国大名が苦悩しながら意思決定していく過程を、ドラマの進行とともに注意深く見つめて行きたいと思っています。

仕事や人生の局面においてどう思考し行動すべきか

これまでの放送の中では、「本能寺の変」の後、「真田昌幸」と「徳川家康」が緊迫する状況の中でどのように決断したのか、その行動を比較すると、非常に興味深いものがあります。

武田家滅亡からわずか数か月で、信長に巧みに取り入ったはずの「真田昌幸」は、「本能寺の変」勃発によって、一転して窮地に追い込まれます。しかし、この真田家存亡の危機ともいえる状況の中、「昌幸」はその混乱に乗じて、滝川一益と北条氏政が争っている隙をついて旧領地の奪還を企て、上州の沼田城・岩櫃城を取り戻すことに成功します。

この、真田家や小県の国衆が岐路に立たされた状況での「昌幸」の即断即決は、まわりを有力大名に囲まれ、お家存亡の危機を幾度も経験するなかで、必然的に蓄積された経験値の成せる技なのかもしれません。現代風に言えば、大企業の事情に翻弄される中小企業の社長が「お家を存続させる(事業継続性を確保する)」ため、「守り」ではなく「攻め」を選択した乾坤一擲の大勝負とも表現できます。

一方の「徳川家康」は、側近数人だけを伴い堺見物をしている際、京都での異変を知ることになります。この時点で多くの武将は「明智光秀謀反」の情報のみを察知した渾沌としたカオス状態にあり、「家康」は「信長」の生死について確信が持てない中で、「信長の生存」、「信長の死亡」どちらが真実かで、今後取るべき行動が大きく変わってくることに頭を悩まします。

ここで「家康」は、史実にある「伊賀越え」をいきなり選択するのではなく、「信長が生存していて、自分だけが逃走した場合」のリスクを最初に想定します。

しかし、「家康」が優れているのは、そんな自身の考えに固守することなく、ブレーンである側近たちの意見に耳を傾け集約することで、徳川家にとって最良の決断ができるようにリーダーシップを発揮している点にあります。

この「家康」の決断は、主従関係が現代よりもはるかに厳格だった当時、家臣の意見を柔軟に取り入れ、危機的状況にあってもベストな選択としての集団意思決定ができるように導く、上司の姿としてひとつのあり方を示しています。

「真田丸」の物語は、まだ4分の1程度が経過したばかりですが、これからどのようなストーリーが繰り広げられるのでしょうか。
少しネタバレになりますが、史実にもとづけば、以下のような展開になります。

織田信長亡き後、「昌幸」は上杉景勝と同盟を結び、その仲介で秀吉に近づいて真田家の存続を図りますが、皮肉なことに秀吉の命令で家康の配下に加えられることになります。その際、「信幸」は家康のもとに人質として送られ、本多忠勝の娘・小松姫(家康の養女)を妻として娶ります。

そして、上杉家の人質であった「信繁(幸村)」は人質として秀吉のもとに赴きます。
秀吉の側近たちとの交流を通して多くのものを学んだ「信繁(幸村)」は、秀吉の小田原・北条攻めに参戦した後、浅野内蔵之助(大谷吉継の妹の夫)の娘(利世)を正室として迎え、後年は五人の子息(二男三女)を授かることになります。

慶長3年に秀吉が亡くなると、その翌年には前田利家も死去することで、一挙に豊臣政権内のパワーバランスが崩壊し、徳川家康と石田三成の内紛が勃発します。
この東西分裂の局面を迎えた時、「昌幸」は徳川秀忠の幕下にあって会津征伐に向かう途中、下野・佐野の犬伏(いぬぶし)で、「信幸」と「信繁(幸村)」3人で真田家の去就について家族での会議を行います。

会議の結論は、「昌幸」は「信繁(幸村)」とともに西軍(三成)側につき、「信幸」は東軍(家康)側に属することになり。これが、一族が敵味方に分かれて戦う苦渋の決断、世に云う「犬伏の別れ」になります。

この後の経過は、皆さまご存知の関ヶ原の戦いを経て、大坂(冬の陣)、大坂(夏の陣)へと続くのですが、最後に番組タイトルにもなっている出丸「真田丸」を「信繁(幸村)」が築いた大坂(冬の陣)の状況を、現代風にシステム構築の局面から考えることでコラム終盤へ繋げたいと思います。

慶長19年「方広寺鐘銘事件」をきっかけに豊臣方は徳川家康と決裂、全国に檄を飛ばし、大坂城に大名・浪人を集結させて開戦準備をはじめます。この時、大坂方の呼びかけに呼応したのが、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、後藤又兵衛、毛利勝永、明石全登ら歴戦の勇士を筆頭とした、浪人など約10万人です。

大坂城内では、徳川軍といかに戦うか評定・軍議が行われ、信繁(幸村)、後藤又兵衛、長宗我部盛親らは、近江まで軍を進め、徳川軍を迎え撃とうと進言しますが、大野治長ら籠城派によって却下され、籠城に決定します。

これをいまの我々に置き換えれば、組織を横断するようなシステム構築会議において、積極的な提案をするものの、全体の賛同を得られず、プロジェクトが暗礁に乗り上げるような状況です。参加者の協力が得られないのは、イメージがつかめない点にあります。この状況を打開するためには、ひとつの部門で実績を作り、成功事例を提示することで会議メンバーを説得するしかありません。

大坂城では信繁(幸村)による「真田丸」造りがはじまります。
信繁(幸村)は守りが弱い城の南側を補強するため、空堀の外側で大坂城から孤立した台地の上に出城「真田丸」を築きます。

城の弱点である南側に孤立した出城を造ることで、徳川軍を誘い込み、ここで戦果をあげることで、大坂城内での発言力を高める目論見ですが、これが功を奏して、徳川方の前田利常、南部利直、松倉重政、榊原康勝などの兵に甚大な被害を与えます。

その後、徳川家康の計略で総掘りを埋められた大坂(夏の陣)では、当初から不利な戦いの中、信繁(幸村)は伊達政宗軍を撃退して家康本陣に突入し、徳川の旗印を倒し家康を逃走させます。徳川家の旗印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目で、それを見た島津から「真田日本一の兵(つわもの)。古よりの物語にもこれなき由」と賞賛を受けることになります。

ドラマのタイトルにも使われている「真田丸」の戦いが象徴するように、信繁(幸村)の戦略は、全体の状況を見極めた上で自分達の長所・短所を分析し、そのウイークポイントをどのように補強することで、それを強みに置き換えることが出来るか考察することにあります。政策を立案する時、システムを構築する際などに、このような観点から考えてみては如何でしょうか。

このコラムでは、NHK大河ドラマ「真田丸」を例にして、我々が仕事や人生の局面において、どのように思考し行動すべきなのか、意思決定の重要性やシステム構築時の要点になるヒントを探ってきました。
今後もこのような独自の観点から、システムのあり方や、その先にあるビジネスモデルなどについて、様々なかたちで情報を発信していければと考えています。

今回は、大坂(夏の陣)の信繁(幸村)の言葉をご紹介して、コラムを終わります。
「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」
我々もこのような気概をもって、様々な局面に対応していきたいものです。

ユーザーファースト視点で考えるシステムの本質

執筆者:NPO法人 地域情報化推進機構 副理事長
ITエバンジェリスト/公共システムアドバイザー
野村 靖仁(のむら やすひと)氏

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