2024年7月3日、20年ぶりに「新紙幣(日本銀行券)」が発行されました。偽造防止の3Dホログラムなど最先端技術を採用したこの紙幣は、社会のデジタル化が進展する中、現金の取り扱いや決済システムの在り方が問われる局面での登場になります。
1万円札には、第一国立銀行など約500の企業群を立ち上げ「日本資本主義の父」と称される実業家・渋沢栄一、5千円札は女子教育の先駆者・津田梅子、千円札は細菌学者・北里柴三郎の肖像が描かれています。
美しいデザインの「新紙幣」は、誰もが利用しやすい「ユニバーサルデザイン」を取り入れるのが主な目的とされています。しかし、人口が減少し労働力不足が深刻化する我が国で、「新紙幣」発行は吉と出るか凶と出るか、今後の景気動向にどのような影響を与えるのでしょうか。
その一方で、日本政府はキャッシュレス化を推進することで、「2025年までに4割程度」という政府目標を掲げています。社会全体のキャッシュレス化がより加速すれば、20年後の2044年、その頃には紙幣に代わって新たな「デジタル通貨」が登場しているかもしれません。
現金決済のインフラの維持コストは思いのほか多額なため、法定通貨を電子空間で流通させる「中央銀行デジタル通貨(CBDC)」の導入が欧米諸国においても検討される中、国内でも日銀が「デジタル円」の将来の実用化を視野に入れた検証を始めています。
日常生活のさまざまな場面に、デジタルサービスによる経済活動が浸透している現在、デジタルエコノミーの広がりは、世界的な潮流として進行中のメガトレンドともいえますが、日本と海外の決済市場を比較すると、我が国の独自性が見えてくると思われます。
日本のキャッシュレス化の状況を知る上で重要な指標が、毎年春に経済産業省が算出、公表している最終消費支出額に占めるキャッシュレス決済額の比率「キャッシュレス決済比率」で、国の重要戦略分野における「KPI」に位置付けられています。
2017年に政府目標が公表され、その際に当時の「キャッシュレス決済比率」21.3%に対して、「2025年までに4割程度」という数値目標を掲げました。
当時は本当に達成することが可能なのかと議論を呼びましたが、最新のデータによると、2023年の「キャッシュレス決済比率」は39.3%を記録し、2017年当時は野心的といわれた目標値を上回る勢いで推移しています。
なお、経済産業省の公表データで2019年と2023年の数値を比較すると、「キャッシュレス決済比率」を算出する際の母数となる民間最終消費支出では、キャッシュレス決済額は81兆9,000億円から126兆7,000億円に増大し、キャッシュレス決済利用が1.5倍以上伸張したことが解ります。
キャッシュレス決済額の内訳は、「クレジットカード」「デビットカード」「電子マネー」「QRコード決済(PayPay等)」など、4種の主要サービスで構成され、決済額の比較から日本の独自性を知ることができますが、やはりこの分野でも我が国はガラパゴスなのでしょうか。
世界的な決済事業者「Worldpay」が、世界40カ国のデータをもとに公開している「Global Payments Report 2024」によると、「POS(店舗レジ)」決済手段別の構成比を見ると、グローバル市場と比較した日本の決済市場の独自性を感じることができます。
まず注目すべきは、「POS」において最大の決済手段が現金決済になっていることで、41%が現金で支払いが行われる、日本の決済市場における現金比率の高さです。
そして、40カ国中「POS」で最も利用されている決済手段が現金の国は12カ国で、世界的に見れば日本は、未だに「現金社会」が生き残る、キャッシュレス後進国に分類されることになります。
世界的にキャッシュレス決済が拡大する中、国内市場でも急速に普及したと感じられる「QRコード決済」ですが、「Global Payments Report 2024」では「デジタルウォレット」カテゴリーに分類され、グローバル市場の決済金額は30%、日本国内では17%で、グローバル視点での利用比率はそれほど高くはありません。
2018年の登場から既に6年以上が経過した「QRコード決済」は、少額決済の選択肢として存在感を増した感があります。今後さらに利用者が拡大し、「クレジットカード」を脅かす存在になるのでしょうか。
「カード決済」の場合、カードを決済端末に挿入し、PINを入力、認証終了後にカードを取り出す、一連の動作が必要ですが、「QRコード決済」では、スマホ画面にコードを表示させ読み取りを行う、シンプルな動作が最大の訴求ポイントになります。
しかし、交通系ICカードの「タッチ決済」と比較すると、スマホを取り出してロックを解除し、決済アプリを起動して画面にコードを表示させるなど、「QRコード決済」の動作が面倒に感じられることも事実です。
日本では「タッチ決済」、世界的には「コンタクトレス決済」と呼ばれる方式は、海外で約10年前に磁気カードからICカードへの切り替えと同時に始まり、それに伴うように日本国内でも「ICクレジットカード」が普及し、最近では非接触ICを用いた「タッチ決済」が存在感を高めています。
いまでは、日常生活の中で「タッチ決済」を利用するシーンを見かける機会が増えましたが、「コード決済」の一連の所作を煩わしく感じる人々には、「ICクレジットカード」を用いた「タッチ決済」のシンプルさが、快く感じられるのかもしれません。
いま注目を集めているのが、全国相互利用が可能な10種類のカードを中心に、かつては交通ICカードの牙城といわれていた公共交通機関の領域で「タッチ決済」の導入が活発化している、鉄道事業者等の状況です。
最近では、東急電鉄、福岡市営地下鉄など、各地の公共交通事業者による「タッチ決済」導入の動きが報じられましたが、最も話題になったのは、熊本市交通局(熊本市電)での「タッチ決済」と「QRコード決済」の導入だけでなく、熊本県内の5事業者が、全国交通系ICカードからの離脱まで踏み込んだ思い切った決断です。
この熊本県内での動きは、全国交通系ICカードの現状を踏まえると、駅務機器等の保守管理コストの増大が主な要因に挙げられていますが、「タッチ決済」「QRコード決済」が交通系ICカードの牙城に進出してきたことを強く印象付けることになりました。
まず、「QRコード決済」を利用するには、スマホにアプリケーションをインストールする必要がありますが、訪日するインバウンド観光客には、滞在期間や言語の観点からも、導入への障壁になることが指摘されています。
一方で、「タッチ決済」は世界標準のため、むしろ海外での普及率が高いことから、母国で日常的に利用しているカードがそのまま日本の交通機関等で利用できることは、訪日客にとって大きなメリットになります。
また、インバウンドに限らず、スマホの取り扱いに不安がある国内の高齢者にとっても、「QRコード決済」より「タッチ決済」の方が取り扱いが安易なため、交通機関での利用を契機に「タッチ決済」が市場に浸透していく可能性は高いと考えられます。
「QRコード」は「交通系ICカード」のように、改札する際に料金を計算し引き去ることや、入出場を記録することはできません。さらに「QRコード決済」の処理速度は遅く、混雑時に人が滞留することが想定されます。
しかし、いま全国の公共交通機関の中で、既存のシステムを見直しながら、入出場の記録をセンターサーバーで記録するなど工夫することで、「QRコード決済」システムの導入を目指す事業者が続出しています。
南海電気鉄道では、「QRコード」を利用した乗車券「南海デジタルきっぷ」を発売し、東急電鉄では、デジタルチケットサービス「Q SKIP」で「東急線ワンデーパス」などの乗り放題きっぷの提供を始めています。
各鉄道事業者では、「QRコード」で「決済」するのではなく、あらかじめネットなどで購入した上で、チケットとしてスマホ画面に「表示」させることで、既存の「紙チケット」を無くすことを目指していると思われます。
JR東日本では、2024年度以降「えきねっと」で乗車券類を予約・購入する際に「QRコード」で乗車することを選択できるようになり、「QRコード決済」を利用したサービスを順次拡大していくとしています。
キャッシュレス・チケットレスの未来は、複数のサービスが競合した後に、一つのシステムが覇権を握るというものではありません。既存の「交通系ICカード」を中心として、クレジットカードの「タッチ決済」と、「QRコード決済」が並走するようなかたちで進展すると思われます。
今後、各事業者のサービスは、利用者のニーズに応じるだけではなく、「クレジットカード」「デビットカード」「QRコード決済」などが、それぞれのサービスを補完し合いながら「共存共栄」して、ユーザーの要望に対応していくのではないでしょうか。
「クレジットカード」の誕生は、1950年代に飲食店への支払いを中心にした会員制サービスの「ダイナースクラブ」と、旅行小切手から派生した「アメリカン・エキスプレス」に始まりますが、その根底には常にユーザーに寄り添ったサービス提供の思想が存在していると思われます。
20年ぶりに登場した「新紙幣)」ですが、「お金が変わる」ということは、人々の現金に対する価値観が変わることにもつながります。
1万円札に描かれる渋沢栄一といえば「論語とそろばん」が有名ですが、仁・義・礼・智・信によって経済を活性化させ、価値観をアップデートする、好機が到来したのかもしれません。
この先、我々はどのような決済サービスを誕生させるのでしょうか。そして、今回の新紙幣は「最後のお札」になるのでしょうか。