2024年5月、熊本市を中心にバス路線や鉄道を運行する事業会社5社が、Suicaを含む全国相互利用可能な「交通系ICカード」(通称10カード)の利用を年内にも廃止し、代わりにクレジットカードによるタッチ決済を導入することを発表して話題となりました。
その理由として挙げられているのが、2024年度末に必要となる約12億円の機器更新料で、5社合わせて直近の年間赤字が40億円近い現状を勘案した上での、苦渋の決断と思われます。
そして、この動きに続くように、関西の私鉄・バス事業者を中心に構成する「スルッとKANSAI協議会」は、スマートフォンに表示したQRコードで改札を通過できるデジタル乗車券「スルッとQRtto(クルット)」のサービスを、6月17日から開始しました。
阪急、阪神、近鉄、京阪、南海、Osaka Metro、大阪シティバス等の各社が1日乗車券などを発行し、乗車券は「スルッとQRtto」の公式サイトで購入することが可能で、決済はクレジットカードなどが利用できるとしています。
また、JR西日本は9月19日、交通系ICカード「スマートICOCA」の販売を、12月12日申し込み分をもって終了することを発表しました。クレジットカード経由で入金(チャージ)できる機能が特徴の「スマートICOCA」でしたが、同等以上の機能をスマートフォンに搭載した「モバイルICOCA」で代替できるとのことです。
このような状況から、2013年にJR東日本のSuica、JR西日本のICOCAなど、全国での相互利用が始まり、1枚のカードで国内各地の交通機関に乗れるようになったことにより、広く普及してきた「交通系ICカード」ですが、テクノロジーの進展と社会的ニーズの変化に伴い大きな転換期を迎えていると思われます。
これまで、小額決済の分野では「おサイフケータイ」等のFeliCaベースの競合サービスは存在しましたが、近年はPayPayをはじめとするコード決済が普及し、一定規模の市民権を得ていると感じられます。
また、それまで小額決済では利用されなかったクレジットカードが、手軽に利用できる「Visaタッチ」など、非接触のタッチ決済の利用シーンが拡大し、様々な商業施設で決済する際に利用される機会が増加しています。
元来、「交通系ICカード」のビジネスモデルは、「エキナカ」「エキチカ」を主戦場に展開してきましたが、他の競合サービスが利用領域を拡大したことで、「マチナカ」全体にまで、そのフィールドが拡張されているのが現状です。
実際、Suicaを含む電子マネーの利用金額や件数は、日本銀行の資料を参照する限り、低水準に留まり現状で頭打ちの傾向があり、金額ベースでは既にコード決済が電子マネーを2倍近く上回っています。
クレジットカードの「タッチ決済」を導入した、国内初の事例はバス事業者で、2020年7月、みちのりホールディングス(HD)傘下の茨城交通が運行する勝田・東海―東京線の高速バスが最初で、鉄道業界初の事例は2020年11月、WILLER(ウィラー)グループの京都丹後鉄道といわれています。
その後、2021年4月に南海電鉄、2022年5月から福岡市地下鉄が、海外からのインバウンド訪日観光客を想定してサービスを開始すると、東急電鉄、東京メトロ、都営地下鉄、京浜急行電鉄、西武鉄道、ゆりかもめ、横浜市営地下鉄、江ノ島電鉄等で、タッチ決済乗車の開始あるいは開始予定が続々と発表されています。
東急電鉄の広報によると「決して交通系ICカードに対抗するわけではなく、あくまで決済手段を増やし、顧客利便性を高めたいというのが狙い」としていますが、カードをかざして改札を通過する点では「交通系ICカード」と使い勝手は変わらず、チャージする必要がないのが便利という考え方もあると思われます。
関西圏においても、近畿日本鉄道、名古屋鉄道、阪急電鉄、阪神電車、Osaka Metro等での実証実験が開始され、Visaの資料によると、同ブランドのタッチ決済乗車は2023年12月現在で28都道府県55プロジェクトと急速に拡大しています。
世界に目を向けると、Visaのタッチ決済に関しては、2001年頃からオーストラリアでの普及が広まり、今では世界200カ国で導入され、ビザ・ワールドワイド・ジャパンの調査では、オーストラリアやイギリス、シンガポールやイタリアではクレジットカード利用の5割以上がタッチ決済だと発表されています。
SuicaやICOCAなどの「交通系ICカード」はインバウンドにとってはなじみが薄く、きっぷを購入するために券売機に並ぶ際の混雑も問題になっていますが、対応ブランドのVisa、JCB、American Express、Diners Club、Discover、銀聯など、国際ブランドのカードで乗車できれば、訪日観光客の利便性向上に繋がると期待されています。
そのため、タッチ決済乗車の導入当初は、首都圏では京急バス・西武バスの羽田空港ルート、大阪・関西空港に繋がる南海電鉄、沖縄エアポートシャトルなど、空港からの移動経路や観光地の公共バスでの採用が目立っていました。
しかし今では、タッチ決済の交通系プラットフォーム「stera transit(ステラトランジット)」を提供する三井住友カードによれば、「タッチ決済」を導入した公共交通事業者数は2023年度に120に達しています。
2024年度には180、2025年度には230まで伸びる勢いで、大手民鉄16社、公営地下鉄8社の駅の7割がタッチ決済に対応する予定としています。こうなってくると、もはやインバウンド向けの施策というよりも、一般の利用者全般を対象とした施策といってよいのではないでしょうか。
「iPhone」や「AirTag」に採用されて、注目されている技術に「UWB(Ultra Wide Band)」がありますが、「UWB」技術を活用することで、センチメートル単位での高精度な位置測定が可能になり、また「UWB」によって、より安全な「SE(セキュアエレメント)」との通信が実現すると思われます。
このように考えると、「UWB」技術の利活用によって、スマートフォンをポケットに入れたままでの店舗での決済や、改札の通過、建物への入退室管理が可能になるなど、様々な生活シーンでの活用が期待されます。
また、より精緻な人流データを把握することで、効率的な公共交通機関の運行が可能になり、平常時の人流パターンを把握することで、災害時の避難計画や物資供給計画の策定に活用するなど、効率的なインフラ整備が可能になります。
今後、新たな要素技術の利活用と「生体認証」、「デジタルID」、「IoT」等、テクノロジーの融合によって、スマートホームや自動運転車など、よりシームレスな生活環境の構築とデータ駆動型社会が実現できるかもしれません。
そして、高齢者にも使いやすいインターフェースの開発や、障がい者、外国人など、多様なユーザーに配慮したインクルーシブな設計によって、利用者に寄り添ったサービスの提供や、地域特性に対応した施策展開が可能になります。
Suicaに代表される「交通系ICカード」のビジネスモデルは、今大きな転換点に立っています。物理的な媒体としての「ICカード」は徐々に姿を消していく可能性がありますが、SuicaやICOCAが築いてきた「シームレスな移動と決済」という理念は、新たな技術やサービスの形で生き続けていくと思われます。
「交通系ICカード」は単なる乗車券や電子マネーの枠を超えて、より包括的な「デジタルID」として機能する方向に進化すると思われます。物理的なカードの重要性は徐々に低下し、その代わりとして、スマートフォンアプリや生体認証など新技術との連携が重要な要素になると考えられます。
Suica、ICOCA等のブランドは、物理的な「ICカード」という媒体から、デジタルサービス全体を表すプラットフォームとして、「サービス基盤」ブランドへと概念を拡大させることで、単に交通や決済の利便性を向上させるだけでなく、より広範な社会的影響をもたらす可能性があるのではないでしょうか。
「交通系ICカード」の進化は、単なる「ICカード」の技術的発展にとどまらず、私たちの社会のあり方そのものに大きな影響を与える可能性を秘めています。便利で効率的な社会の実現や、地方と都市部の格差をどのように解消するのか。
様々な社会的課題に向き合い、テクノロジーの恩恵をいかに社会全体に行き渡らせ、解決策を模索していくかが、今私たちに求められています。
テクノロジーと社会の関係性を考える上で、「ICカード」の利活用は非常に興味深い事例ではないでしょうか。その進化の過程を注意深く見守り、より便利で安全、そして公平な社会の実現に向けた議論を続けていく必要があります。
今私たちは、新たな時代への分岐点に立ち、「ICカード」という媒体の変遷と未来を通じて、テクノロジーがもたらす可能性と課題を見つめ直し、より良い社会の実現に向けて一人ひとりが考え、行動することが求められているのではないでしょうか。