インバウンド(訪日外国人旅行者)の旅行消費額は、2024年に8兆1,395億円を達成するとともに、訪日旅行者数は3,686万9,900人となり、過去最高を記録しています。
このインバウンド消費は、GDP統計では「サービス輸出」に分類されるため、日本の主要輸出品目において、自動車に次ぐ重要な収入源となり、我が国の経済をけん引する一大産業としての大きな存在感を示しています。
一方、観光地では急激なインバウンドの増加に対応しきれず、訪問先のサービスや地域のキャパシティを大きく超え、住民の暮らしや自然環境に悪影響を与えるなど、特定の地域が過密状態になることで観光地の魅力が損なわれる現象、いわゆる「オーバーツーリズム」問題が指摘されています。
オーバーツーリズムは、日本だけでなく世界中の観光地が直面する大きな課題になっていますが、この難題に対する新たな方策として、いま世界で「スチュワードシップ(Stewardship)」という考え方が大きな注目を集めています。
読者の皆さまの中にはスチュワードシップという言葉を初めて聞かれた方もおられるかもしれませんが、直訳すると「受託責任」や「財産管理者の責務」など、少し硬い言い回しになります。
これを観光の観点から柔らかく表現すると、その土地の自然や文化、人々の暮らしといった大切な「財産」を未来のために預かる「管理人」として、責任を持って大切に運営していく「姿勢」と言い表すことができます。
これまでの観光は、いかに多くの観光客を呼び込むか、という「数」や「量」を追い求める側面が強くありました。しかし、スチュワードシップの考え方では、目先の利益や来訪者数だけを追い求めるのではありません。
その地域に住む人々の幸福や、地域の自然環境・文化が持続可能であることを第一に考えます。そして、この考え方を推進する中心的な役割を担うのが「DMO(Destination Management/Marketing Organization)」と呼ばれる組織です。
そして、世界の「DMO」が集まる国際的な組織「DI(Destinations International)」では、このスチュワードシップの考え方がこれからの「DMO」の最も重要な役割だと位置づけられています。
世界中で海外旅行が身近になり、特にコロナ禍を経験した後は抑圧されていた旅行熱が一気に噴き出した結果、多くの有名観光地がその受け入れ能力をはるかに超える観光客で溢れかえり、深刻なオーバーツーリズム問題に直面しています。
こうした問題は、交通渋滞、ゴミ問題、騒音、不動産価格の高騰などを引き起こし、地域住民の生活を脅かします。その結果、観光客に対する住民の感情が悪化し、観光地全体の魅力が損なわれるという悪循環に陥りかねません。
では、どうすればよいのでしょうか。観光庁が策定した日本の「DMO」に関する新しいガイドラインにおいても、「関係者間の合意形成」の重要性が謳われています。しかし、現実には全員が100%満足する答えを見つけるのは至難の業です。
ここでできるのは、様々な声に耳を傾け、データを分析し、現場を観察することで、満足度の"最大公約数"を少しでも高めていく地道な努力しかありません。
「多数決で決めて終わり」ではなく、反対意見を持つ人々の声にも耳を傾け、対話を続け、少しでも多くの人が納得できる道を探し続ける、その地道な努力の積み重ねが地域からの信頼を勝ち取る唯一の方法なのです。
スチュワードシップの考え方は、理想論ではありません。すでに世界では、この考え方を取り入れ、成果を上げている地域や企業が数多く存在します。
海外の先進事例としては、シンガポール政府観光局(Singapore Tourism Board)が2021年に国全体として、後述する持続可能な観光の国際基準「GSTC」に準拠した政策を導入した事例が有名です。
これは、国の長期的な環境計画「シンガポール・グリーンプラン2030」の一環で、観光産業全体で持続可能性を追求するもので、個別の地域やホテル・施設だけでなく、国という「目的地(デスティネーション)」そのものが認証を目指すという、世界でも先進的な取り組みです。
日本の状況はどうでしょうか。京都や鎌倉など一部の地域ではオーバーツーリズムが深刻化する一方で、観光客を呼び込みたいと考えている地域も多く、スチュワードシップへの意識には大きなばらつきがあるのが現状です。
しかし、たとえ今は観光客が少なくても、将来的に世界から選ばれる魅力的な観光地になるためには国際的な標準を意識し、地域住民に寄り添った取り組みを今から始めることが不可欠です。
ここで重要になるのが「GSTC(グローバル・サステナブル・ツーリズム・カウンシル)」という組織が定める持続可能な観光の国際基準です。
「GSTC」は「持続可能なマネジメント」「社会経済のサステナビリティ」「文化的なサステナビリティ」「環境のサステナビリティ」の4つの柱で構成されており、持続可能な観光地かどうかを測る世界的な「物差し」となっています。
この世界基準に対し、日本独自の事情を考慮して作られたのが「JSTS-D(日本版持続可能な観光ガイドライン)」です。このガイドラインは「GSTC」から承認を受けることで、日本の「DMO」や自治体が自分たちの取り組みを客観的に評価し、改善していくための強力なツールになると期待されています。
この「JSTS-D」を活用して、スチュワードシップを実践する日本の先駆的な「DMO」が、岐阜県の下呂温泉観光協会です。下呂温泉は、2022年に「世界の持続可能な観光地トップ100選」(グリーン・デスティネーションズ)に選出されるなど、国際的にも高い評価を受けています。
下呂温泉の取り組みで注目すべきは、地域住民への徹底した情報公開とコミュニケーションです。「DMO」によるデジタル戦略によって、今では世界に知られるサステナブルな温泉地となり、観光の力で地域全体の活性化を図っています。
これらの事例に共通するのはスチュワードシップを単なる社会貢献活動ではなく、自分たちの魅力を高め、競争力を強化するための「経営戦略」として捉えているところです。
こうした活動を通して住民の観光への理解と参画を促し、住民と観光客、双方の満足度を高めていく。これこそがスチュワードシップを体現する「DMO」の理想的な姿といえるのではないでしょうか。
地域の「DMO」が目指すのは、日本でもよく使われる「訪れてよし(観光客の満足)」と「住んでよし(地域住民の満足)」という2つの価値だけではありません。
これに加えて「働いてよし(安定した雇用の創出)」と「投資してよし(新たなビジネスチャンス)」をプラスした4つの価値をバランスよく高め、好循環させていくことが求められているのです。
この好循環を生み出すために、重要なのが地域住民との対話と合意形成で、地域の声に真摯に耳を傾け、地域の価値観を尊重しながら、住民が納得できる速度で観光をマネジメントする、この丁寧なプロセスこそが地域の持続可能性に繋がる、という考え方が世界の潮流になっています。
今では、スマートフォンの移動履歴やクレジットカードの利用履歴など、様々なデータを活用することで、人々の移動の状況や消費行動を分析することも可能ですが、このデータをAIを活用して詳細に分析することで、より効果的な施策の立案に繋がると思われます。
しかし、データだけでは捉えきれない現実も存在しています。例えば、その家族がなぜその観光地を選んだのか、子どもたちがどんな表情で遊んでいたのか、といった「想い」や「感情」をデータから読み解くことは困難です。
だからこそ、観光に関わる自治体や「DMO」等の職員は、「DX」によって生み出された時間と余力を積極的に活用し、スチュワードシップの実践を第一義に行動するべきではないでしょうか。
現場に足を運び、観光客だけでなく、住民一人ひとりの表情を自分の目で見て、対話を重ね、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを図ることがデータだけでは得られない信頼関係を築き、真の合意形成に繋がると思われます。
観光地の未来は、誰か一人が頑張って創るものではありません。「DMO」が地域住民と丁寧に対話を重ね、信頼関係を築いていくこと、そして旅行者は、その土地の風土・文化に敬意を払い、責任ある行動を心がけることが肝要です。
地域住民と自治体、そして「DMO」と旅行者、観光に関連する全ての人々が「当事者」として手を取り合うことで、真に持続可能な観光が実現するのです。
世界の観光は今、大きな転換期を迎えています。多くの観光客を呼び込むことだけを目指す時代は終わり、地域に住む人々の幸福と、その土地の文化や環境の持続可能性を第一に考えるスチュワードシップが、世界の新常識になろうとしています。
この考え方は、オーバーツーリズムに悩む一部の有名観光地だけのものではありません。これから観光に力を入れていこうとする地域にとっても、将来にわたって人々から愛され、選ばれ続けるための「未来への羅針盤」となるのではないでしょうか。