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【歴史編】「真田昌幸」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 弱肉強食の戦国の世に「真田家名」を必死に守った男 真田昌幸

「真田昌幸」前編はこちらから

慶長5年(1600)6月半ば、家康は上杉景勝討伐の名目で会津に向かうが、これをみた石田三成は、その、ほぼひと月後、挙兵宣言をする。このことを予測していた(と私は思う)家康は、待ってましたとばかりすぐさま上杉討伐をやめ、さっさと踵を返し宇都宮近くの小山で会議の場を設ける。「小山評定」である。この時、昌幸たちは家康の上杉討伐行に同道していたが、栃木県の犬伏宿で「三成挙兵」を知り、急遽、その犬伏で父子三者会談をするのである。議題は「真田家の生き残りについて」。その時、昌幸が出した結論は、「どっちに転んでも大丈夫なように、信之は徳川、昌幸と幸村は三成」というものだった。そして、「関ヶ原」があり、徳川が勝つ。負けた三成についた昌幸・幸村父子は、当然死罪だと思われたが、下された裁定は、「紀州・九度山に逼塞」であった。なぜ、殺されなかったのか。これには、きっと、信之サイドの猛烈な働きかけがあったからで、そのことも、昌幸には「想定内」だった(と思う。なぜ、信之サイドがそんな力を持っていたかは、後で少し、触れる)。結局、昌幸はここで11年過ごして、病死。幸村は更に3年、通算、実に14年も山にいて、慶長19年(1614)10月、請われて大坂へ。やがて始まる大阪冬の陣では、城に真田丸を作って、秀頼のために大いに奮闘した。また、翌年の夏の陣の最終盤では、家康に自害を決意させるところまで追い詰めた(フロイス「耶蘇会士日本年報」)が、結局は戦死。一方、家康側についた信之は後に信州・松代の地に10万石を与えられ、その末裔はその地で江戸時代を全うする。「真田の家」は続いたのだから昌幸の目論見通りになったのだが、私は、昌幸のこの「豊臣徳川・両面作戦」は、多く喧伝されているような、この「犬伏の別れ」の時に初めて決めた、のではないと思っている。嫡男・信之の妻は徳川四天王の一人・本夛忠勝の娘である(小松姫)。知略家・昌幸は持ち前の鋭いカンで、「こののち、天下は家康のもの」と読みきった時があったのではないか。そこで家康に食らいつく方途の一つが家康の側近中の側近、本多忠勝への接近だった。嫡男・信之の嫁は何としてでも忠勝の娘を、と思い定めた昌幸は、たとえば、「臆してはならぬ」といった、見合いの席での立ち居振る舞いなどを、その時、信之に細かく伝授したかもしれない。

「真田昌幸」元NHKアナウンサー 松平定知

昇り梯子の甲冑

(写真提供:真田宝物館)

ところで、次男・幸村の妻は三成の大親友、大谷吉継の娘(妹説、姪を養女に説もある)の、竹林院(名前はこの[号]しか残っていない)である。自分の妻(山之手殿)と三成の妻とは父(宇田頼忠)が同じ、という関係にある。昌幸は、自分と三成との縁戚関係も考えて、万一、豊臣側に転んだ際も、その保険として吉継の娘を、と思っていたとしても、あの深謀遠慮の昌幸なら考えられなくはない。要するに、昌幸は「お家存続のために一家バラバラで...」というプランを、この犬伏で初めて考えだしたのではなく、ここは実行に移した場所だったにすぎなかったのだ(と思う)。「この説」を補強するものとして、もう一つ、信之と幸村の「順序」の問題がある。「嫡男信之と次男幸村は、幼名が、それぞれ、源三郎、源次郎」という「事実」である。三郎が兄で、次郎が弟、って、おかしくはないか。彼らは年子で、体型も、信之は偉丈夫、幸村は痩身短躯と、相当違っていたという。この二人は、母が違う(のだと思う)。幸村は正妻との子が生まれる前に、他の女性との間に出来た子供だったのだ。昌幸にしてみれば、幸村は初めての子だから、可愛い。が、この子を真田家の嫡男にすることは出来ない。悩んでいる彼に、翌年、正妻との間に子ができる。「よし、後継はこの子。幸村は次男としてなら真田家に迎え入れることができる。不憫な子だからせめての償いに俺が十全に保護する。行動はいつでも一緒だ。」―――こう考えると、家康方に信之を、幸村と自分は豊臣方に、という別れ方の根拠も、夫の九度山行に際して、昌幸の妻は、夫と腹違いの子には同行せずに、自分が腹をいためた嫡男の信之とともに「真田家のその後」を見守る、という選択をしたことも合点がいくが、どうだろうか。

荒唐無稽な話を根拠無く吹聴するのではなく、一定の資料を真面目に積み重ねたあとの不明部分は、こうして想像の翼を大きく広げて見ることで、歴史を身近に感じることが出来る。清冽で勇猛な「幸村ばなし」の蔭に、皆さんの知らない、謀略家・昌幸が存在した―――そんなことに思いを馳せるのも、「歴史の妙味」の一つである。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。