とても切りのいい、今から丁度500年前に、今川義元は生まれています。でも、大の義元ファンや義元の地元以外の方々は、このことをあまりご存じありませぬ。
この「500」という数字は、一昨々年(2016)の家康没後「400年」や昨年(2018)の明治維新「150年」と比べて、よりきっぱりした、切れ目のいい数字ですのに。
今川義元と言えば、当時、天下を視野に入れた武将の一人でした。「海道一の弓取り」とも言われた男です。にもかかわらず、この「500年」の関心が「全国的にいまいち」なのは、あの「桶狭間のせい」だと、私は思います。当時、齢40を過ぎて、戦も人生経験もそれなりに重ねてきた円熟の大武将・義元が、新興の、まだ20代の若造・信長にまさかまさかの敗北を喫した、あの戦いです。しかも、その兵力は、義元2万5千に対して、相手の信長は10分の1の2,500とも2,000とも言われています。まあ、この兵力比較については諸説ありますが、ここでもう一つ「しかも」を重ねるとすれば、それは、その負け方です。敵の10倍近い兵隊を擁する大将が、20代の若造軍に首を刎ねられてしまったというあの負け方です。あまりの兵力比に、油断してしまったのだという論評がもっぱらですが、この事実に義元の評判は急落。結果、戦国武将人気度(有名度)ランキングでは、信長・秀吉・家康はもちろん、信玄や謙信を加えたベスト5にも入りません。が、そこは「東海一の太守」とも言われた今川義元。彼は、伊達政宗、真田父子、毛利元就、朝倉義景らと並んで、そのトップ10グループには入っているとは思います。しかし、義元ファンの私にはそれでは大いに不満。ですから今日はもう、以下ははっきり、今川義元応援歌です。
桶狭間古戦場公園(名古屋市)
そもそも今川氏は、源氏足利の一門で、将軍家に次ぐ名族の出自。南北朝のころからの「守護」の家柄です。弱肉強食、昨日の友は今日の敵、の、何が起こるかわからない混沌とした戦国時代の中で、その、先祖代々からの「守護」の地位を堅持しつつ、なおかつ、その勢力範囲を拡大していった「今川氏」は、ですから「非凡」な集団です。特に義元のころは、東海三国( 駿河、遠江、三河)の広大な地域を統べていました。また領内には金山を持ち、領国には、幹線道路(後年の東海道)が走り、太平洋岸水運も盛んだったので、商品流通による収益も大きく、財政基盤はかなり強固なものでした。国力を示す総石高は100万石を超えていましたし、その動員兵力は、常時2万5千人をくだりませんでした。かてて加えて、義元には「太原雪斎」というスケールの大きい、極めて聡明で懐深い側近(軍師)が仕えていました。つまり、どこと言って死角のない、押しも押されもせぬ「天下人の器」なのです。だから、今年の、「生誕500年イベント」は、これから、もっと盛り上がってほしい、と切に思っています。
この義元の3代前の義忠の時代。義忠の正妻は、のちに神奈川・相模の地に、五代・百年続いた北条王国を創ったかの北条早雲の妹(姉説もあり)・北川殿でした。彼女の夫・義忠が6歳の嗣子(龍王丸)を残して戦死すると、今川の家督を、義忠のイトコが狙います。それだけではなく、今川家の内紛を見た外部勢力、関東の太田道灌がこれに介入しようとし、あわよくば、、、を狙います。こうした不穏な動きに北川殿は、兄(弟説も)の早雲にSOSを出します。早雲は、まず外部勢力の排除を、と、幼い甥・龍王丸が成人するまでは、そのイトコ(の子)・小鹿範満に今川家を託します。こうして待つこと10年。龍王丸が17歳になった時、早雲は「そろそろ家督交代を」と範満に要求します。しかし受け入れられなかったため、範満の館を襲い彼の首を斬り、結局、今川家は北川殿と義忠の実子が後継になります。その龍王丸はのちに氏親を名乗ります。その息子が、わが「義元」です。