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【歴史編】「伊達政宗/全4回シリーズ(第3回)」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「伊達政宗/前編」編

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信長が本能寺で焼死したあと天下人になった秀吉は、全国の大名に対して、私闘を禁じた『惣無事令』を出しました。1587年(天正15)12月のことでしたが、政宗は公然とそれを無視。1589年(天正17)、宿敵蘆名氏相手に派手に「摺上原」で私闘を演じました。その時の命令違反をチャラにするから、と、秀吉はその翌年、秀吉の天下獲りを事実上決定づけた北条氏相手の小田原城決戦への参戦要請をきつく命じます。

しかし政宗はそれを、前回触れた、実母による自分暗殺未遂事件の渦中にあったからという理由で、すぐ参戦の行動をとらなかったり、そのほとぼりも冷めない時期に、東北の一部で一揆を操って政情不安を醸成させようとしたりすることをやったりしました。政宗はその都度、自分と似たり寄ったりのパフォーマンス男・秀吉を見越して、白の死装束や金色の磔担ぎ(白の死装束は遅刻騒動の時、金色の磔を担いで市中を行進したのは一揆扇動嫌疑の時)などの、思いっきり派手な演出で陳謝し、計算通りに許して貰います。しかし、その秀吉に代わって家康が天下を獲ると、この家康にはパフォーマンスは効かないと判断した政宗は、謹厳実直に家康に臣従する姿勢を公式には見せます。

でもその裏で、彼は時折、家康の眼を盗んでは自分の近辺で一揆を扇動したりしました。尤も、それが因で、家康に「100万石のお墨付き」を反故にされたりもするのですが、それにもめげず、政宗は持ち前の「武力、政治力」で、東北の盟主としての立場を保ち続けます。秀吉、家康双方から、自らの政権を脅かしかねない「東北の牙城」、「奥州の要」という地位を築き上げた政宗の軍事的・政治的力量には感嘆するしかありません。

この政宗の「非従順行動」の裏には、「秀吉さん、家康さん。貴男と私は、たしかに私の方がだいぶ後輩ですけれど、でも、ね、あなた方の思い通りにはなりませんよ」といった政宗の「気概」があった、つまり、巷間言われているような、「遅れてきた天下人」とは本人は露ほども思っていなかったのではないかと、私は思います。その証拠に彼は天下獲りを見据えてある行動を起こすのです。それはこれまで誰も考えたことのない方法でした。

―――それは、外国勢力を利用しての天下獲り戦略です。

政宗は腹心の支倉常長をヨーロッパに派遣します。1613年(慶長18)9月、石巻市の月の浦港から出港した慶長使節団がそれです。船は仙台藩内で作られたサン・ファン・バウティスタ号。船はまず、メキシコに向かいます。そのあと、キューバを経てスペインのサン・ルカ港に向かいました。サン・ルカ港到着は月の浦港出向の13か月後。船には仙台藩士、幕府関係者、商人ら180人ほどが乗っていました。この政宗の洋行使節団は江戸幕府も知っていました。当然、家康も、です。というより、日本船の洋行は、国際派・家康の構想でした。例の「鎖国政策」はこのあと、孫の家光の時代からでして、この時期のこの「洋行」は寧ろ家康の意向を受けて政宗が実行に移した、と言った方が正確かもしれません。

「伊達政宗」元NHKアナウンサー 松平定知

とすると、先ほどの私の「他に誰も考えつかなかった手法」というのは言い過ぎとクレームがつきそうですが、家康の構想は、「経済効果まで」でした。関ヶ原当時、西国大名たちは海外貿易で利益を上げていました。それから十数年たって、太平洋横断航路が開拓され、江戸も、仙台も、海外貿易が身近になりました。

家康と政宗が貿易相手として想定していたのはメキシコでした。メキシコを通して北米大陸の物産や、宗主国のスペインからも、利益を生む「商品」が日本に集まる、これは莫大な利益を徳川幕府に齎すことになる!―――家康が考えていたのは、でも、そこまで、でした。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。