石田三成の言葉に「残すは盗なり。つかひ過ごして借銭するは愚人なり」(老人雑話)、というのがある。主君から頂く俸禄は、その範囲内で過不足なく使い切って懸命に奉公するのが忠臣であり、出すべき費用を出し惜しんで不正に貯めこんだり、無計画に使い過ぎて借金を作ったりするのは、ともに家臣としては愧ずべきことである、といった意味である。
この、「俸禄は使い切る」というところをさして、「奴は、官僚の権化だ!」と非難する人がいる。しかし、この三成の「俸禄を残さぬこと」と、こんにち、毎年、3月の年度末になると日本各地でみられる不必要な道路掘り返し工事とは全く質が違う。こんにちの、あの、みっともない「予算使い切り無理やり工事」は、一度手にした予算を使い切らねば、それは次の年度に影響し、とりもなおさず、それはその年度の担当者の鼎の軽重が問われるからやるだけの、さもしい根性の、じつにあさましい姿だが、この三成の「それ」は、断じて違う。考えても見られたい。
俸禄を余らせもせず、使い過ぎもせずに「きっちり使い切ること」の難しさを。いかに冷静に、いかに正確に、いかに計画的に、ものごとを見積もれるか、ということである。それをきちんと成し遂げるためには、ことに当たって、いかに公正なものの考え方や克己心が必要であるか、ということである。関ヶ原の戦が終わり、三成が捕まって、三成の居城・佐和山城は家康の家臣らによって「城改め」が行われたが、検分に来た徳川の重臣たちは、その余りの質素さに息をのんだという。
豊臣政権の側近として、最も長く、最も信頼篤く、その傍にいた三成は、秀吉から非公式に貰った金銀財宝をしこたま貯め込んでいるだろうと想像して城内に入った件の重臣は、むしろ粗末とも思えるほどの調度品が、あっちに一つ、こっちに一つ置かれただけの、塵一つ落ちていない整然とした部屋々々を見て感嘆した。
報告を受けた家康は「武士たるものはそうでなくてはならぬ」と深く頷いて瞑目したという。
そんな三成が、歴史上、なぜ、あんなに悪く言われるのか。
曰く、ゴマすり・讒言野郎。曰く、冷血、官僚居士。曰く、傲慢な上昇志向。曰く、理屈先行の口先男などなど。彼ほど、あしざまに言われた武将も珍しい。
それは、江戸(徳川)時代270年もの長きにわたって、三成はオラが大将・家康に刃向かった、とんでもない奴に仕立て上げられた「徳川史観」によるものである。私は常々言っているのだが、歴史は、「勝者」を軸にした視点から語られ過ぎる。「勝てば官軍」という考え方は断じておかしい。大体、この「勝てば官軍」という言葉自体もおかしい。何故、旧幕府軍は「賊軍」なのか。勝った方が正義で負けた方は不正義、という考え方は「誤り」である。勝敗はまさに時の運。敗者の言い分を抹殺してはならない。敗者であるということの故に、評価を不当に貶めてはならない。
以下は、真っ当な三成像である。
石田三成。近江の石田村(長浜市)の豪族の家の出。幼名佐吉。言わずと知れた豊臣秀吉政権の官房長官。豊臣家を頂点とする巨大コングロマリットにおいて、その実務を確実に推進する上で、かけがえのないナンバー2であった。
いま仮に「秀吉政権の実績を上げよ」という試験問題があったとして、「刀狩と検地」と答えればバツにする学校関係者はいない。その「太閤検地」の中心的実行人は三成である。このおかげで隠田の摘発も出来たし、収入の基礎である課税農地の面積と質をシッカリと把握できた。
また、秀吉の「朝鮮出兵」におけるロジスティックス担当としての彼のありようは、この「暴挙」の評価とは全く別に実に鮮やかなものだった。