宮本武蔵は二人いる―――「達人」・武蔵と、「哲人」・武蔵と。
今回と次回は、2回にわたって、この「二人の武蔵」について書いていく。
武蔵の生誕については諸説ある。まず誕生年だが、天正10年(1582)説と、その2年後だとする説。前の説だとすると、織田信長が本能寺で命を落とした、あの年にあたる。生誕地も美作(岡山)と播磨(兵庫)の二説ある。まあ、このように、生い立ちはミステリアスだが、逝去の時は、その年も場所もはっきりしている。命日は、正保2年(1645)5月19日。場所は熊本城下であった。
武蔵は、生涯、恋人を持たず、妻を娶らず、従って、子もなさなかった。
彼は16、7の時に「関ヶ原」体験がある。西軍に属した。その関係もあり(のちに詳説)、「関ヶ原後」は諸国を遍歴。各地で自分の剣の技の具合を試す。その数は、剣術の名門「吉岡一門」との死闘や、宝蔵院流の槍や二刀神影流鎖鎌の異種対決も含めると、全部で60を超える。その60を超える仕合で武蔵は一敗もしていない。60数戦無敗。強い男だった。「剣の達人・武蔵」たる所以である。
武蔵と小次郎 決闘の像の「宮本武蔵」
その「達人」武蔵を語る上で特筆さるべきは、巌流島での佐々木小次郎との対決だろう。これについてはのちほど触れる。
しかし、そんな、「滅法強い武蔵」にも死ぬときはやって来る。既述の正保2年、彼は細川家の領地内の山中(の洞窟)で本を執筆中だった。日々衰弱していく彼を見かねた細川家の家老の必死の説得を受け武蔵は洞窟を出て熊本城下に居を移し、そこで息を引き取る。死の直前まで書いていたその本の名は、「五輪書」という。寛永20年(1643)起稿。兵法の極意を地・水・火・風・空の5巻に説いた書。
例えば、「剣術のみを鍛錬してもまことの剣の道を知ることは出来ない」とか、「大きなところから小さなところを知り、浅きところから深きところを知るがごとく、おのれの目指す道とは全く異なる方向から本質がつかみとれることもある」といった文言がちりばめてある。これは、その4年ほど前に、細川忠利の依頼で執筆し完成させた「兵法三十五箇条」に代表される単なる剣術の解説書、指南書の類ではない。人の生き方について触れた哲学書である。日本人だけではなく、海外でも多くの人に読み継がれた。「哲人・武蔵」と呼ぶ所以である。「武蔵が二人」―――しかし、いうまでもなく、前半生の剣豪・不敗の武蔵と、後半生の求道者・哲人武蔵は、いずれも、紛う方なき「彼自身」。となると、彼に何が起こって、あるいは、彼が何を感じて、「そうなった」のか。
彼の人生は「凡そ60年」だった。巌流島での決闘が慶長17年(1612)でおよそ30歳の頃だったから、この巌流島で、彼の人生を二つに分けてみようと思う。巌流島以前とそれ以後と。まずは、彼の前半生である。
武蔵の自著「五輪書」の序文の自分の半生を振り返った個所には、彼が剣技試しに諸国の諸流の兵法者と勝負をしたのは、13歳から29歳くらいまでで、30歳を超えて、「跡をおもひみるに至った」と記されている。そして、「その後、なおも深き道理を得んと朝鍛夕錬」して、兵法の神髄を会得したのは「我、50歳の頃也」とある。つまり、30歳までの「前半生」は、ただただ決闘に明け暮れ、「勝利に拘る日々」であった。
北九州市小倉に、武蔵の死後、養子の伊織によって建てられた石碑がある。「小倉碑文」というが、そこに初の決闘記事が刻まれている。それによれば、決闘初体験の相手は「新当流」という剣術の使い手で、名を有馬喜兵衛といった。武蔵、13歳。この時、13の武蔵は相手と堂々と組みうち、相手を投げ飛ばし、手にした棒で有馬を滅多打ちにして、勝つ。ここから、およそ17年間、60数回戦って負けなしという「決闘不敗記録」がスタートした。