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【歴史編】「茶屋四郎次郎/前編」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「茶屋四郎次郎/前編」編

徳川家康の人生の決定的な場面に、一度、のみならず、二度もその傍にいて、立ち会った男がいました。その名は、茶屋四郎次郎。一人、ではありません。茶屋四郎次郎という名の、二人の人物です。

一人は初代茶屋四郎次郎清延。もう一人は初代の二男、三代目茶屋四郎次郎清次。この父子、二人の茶屋四郎次郎が家康の人生の大事な場面に家康の横にいた――今回はそんな話です。

茶屋四郎次郎は、京都の豪商です。商いは呉服屋。簡単に言うと、権力者と政商、といった間柄です。でも茶屋家は、家康が天下を獲ったから家康に急接近を図った、というわけではありません。

初代の清延が、「天下分け目の関ヶ原合戦」の4年前、1596年に死んでいることがその証です。家康の何が清延をそうさせたかは不明ですが、この「初代・茶屋四郎次郎清延」は、初対面以来、陰に陽に、家康を支えました。そのハイライトが、あの「本能寺」の変です。あの騒動に清延が直接かかわっていた、ということではありません。彼の情報網があの「異変」をキャッチ。しかもそれは「信長焼死」という「超一級情報」付きでした。

この「変」の翌日に、茶屋四郎次郎は家康のもとに自らが早馬に乗って駆け付けます。「その衝撃の一報」を家康が聞いた場所は、大阪・四条畷の路上でした。領国は三河の家康が、何故、そこにいたかと言えば、それはその時、家康は信長の提案で、たまたま京阪神への「慰安旅行」の最中だったのです。

4か月前、山梨県の天目山で、武田勝頼が自刃して、信虎、信玄、勝頼と続いた武田家は潰れました。攻めたのは信長・家康連合軍。その戦での家康の働きは見事だったと信長に褒められ、そのご褒美としての慰安旅行でした。「いくさ」ではないのですから、家康一行は数十人の非武装集団です。茶屋四郎次郎清延のこの早馬での急報がなければ、1万数千の兵力で本能寺を襲った光秀の前に、「旅先の家康」はひとたまりもなかったでしょう。

「茶屋四郎次郎」元NHKアナウンサー 松平定知

京都 茶屋四郎次郎邸址

一報に接した時、家康は、即座に「殉死」を考えましたが、同行していた重臣・本多忠勝が必死に説得。「こんなところで自害はなりませぬ。何が何でも領国・三河に帰り、明智を討つ。それが信長公への報恩ではありますまいか。短慮を排して、ここは捲土重来を!」――この熱誠溢れる本多の提言に家康は翻意。

しかし、「三河に帰る」といったところで、京阪神から三河までの主要道路には光秀の兵が潜んでいることは、火を見るより明らかです。思案の末、選んだ逃避路は、これまで通ったことのない伊勢志摩半島を縦断するコースでした。なんとしても伊勢に辿り着き、そこから海路、三河を目指す、というルートです。といっても、これは未知のコース。山中には山賊が跋扈しているでしょうし、落ち武者狩りの無法者たちもいます。

その時、家康一行は、服部半蔵と茶屋四郎次郎を先行させました。半蔵が、未知の伊勢山中の情報収集と道順決定、それに、村長ら山の有力者との協力要請交渉。茶屋四郎次郎がその代償としての「お金配り」。本多忠勝ら猛将が家康の安全警護担当、という役割分担。結果は、大成功。伊勢の浜から領国・三河に向かう小船に乗った時、漁師が差しだした「ヤドカリの塩辛」を口にした家康は「殊の外、風味よし」と、粟麦飯を三杯食したといいます。茶屋四郎次郎はこの時の功績で、家康の御用商人として取り立てられ、以後、親交を深めて、徳川家の呉服御用を一手に引き受けることになります。

「茶屋四郎次郎/後編」はこちらから

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。