信長、秀吉、家康。この3人を戦国BIG3とすることには、みなさん、異論のないところでしょう。それに信玄、謙信を加えてのBIG5までは、まあ何とか、かと思います。で、本稿は、そういった誰もがご存知の有名人は避ける、というのが「立党の精神」でした。
そんなわけでこれまで、「瀬戸内海に君臨した海賊・村上水軍の統帥、村上武吉」とか、「関ヶ原で西軍に与したため戦後改易されたが、そののち西軍で唯一旧領を回復した立花宗茂」といった、知る人ぞ知る、いぶし銀の人材を選んできました(まあ中には、宮本武蔵や千利休などといった「有名人」もいましたが・・・)。そんな中で今回は伊達政宗を、4回に亘って、と思っています。と、言うと、「おい!政宗は今川義元、朝倉義景、浅井長政、島津、毛利、北条などと並んで、堂々トップテンに名を連ねる大有名人だっ!」と御怒りの方もいらっしゃいましょう。
おっしゃることはよくわかります。NHK大河ドラマ・独眼竜政宗(1987年に放送)は「年間」平均視聴率で、なんと、39.7%という大河ドラマ史上、空前絶後の最高記録として今も燦然と輝いています。そういう意味でも、政宗を本欄に登場させるのは確かに「違反」でしょうが、彼の尋常でない家族関係、彼の特異な天下取り手法、いざという時に完璧に演じることのできる希代のパフォーマー資質、尋常ではない彼の文化教養度の高さ、等々。ご紹介したいことがいっぱいの彼を、すみません、是非やらせていただきたいのです。でも、4年前、小欄に政宗の傳役・片倉小十郎のことを取り上げていますから、それとの重複は、極力、避けることはお誓いします。
伊達政宗は、1567年(永禄10)8月、山形県の米沢生まれです。政宗と言えば仙台と思いますが実は「山形生まれ」なんです。
彼が仙台城建設に着手したのは「関ヶ原のあと」のことで、仙台に居城を建てたのは、家康が政宗に出した「百万石のお墨付き」がその背景にあります。それまでの「伊達62万石」の領土の中で、仙台城はその中心ではなく、少し南に偏っています。
でも、その62万石に、上杉景勝の領地を加えた100万石の新領土になれば、仙台はその中心に来ます。「自分が関ヶ原で三成と戦っている間に、政宗よ、お前は実力で景勝の領地を奪い取れ。で、100万になれ!」という家康が出した覚書(お墨付き)を実行に移したのです(でもこの約束は翌年秋には、政宗側の一揆扇動を咎められて反故になります)。この「仙台」は、もともとは国分氏の城があったところで、「千代」城と呼ばれていました。
青葉城址の伊達政宗像
これに「仙台」の字を充てたのは、「古代中国の前漢の皇帝が長安に都を作る時に、長安の西の山に「仙人」達が集う「台」を作り、永遠の繁栄を見守ってもらったという伝説に因んだもの。政宗は仙台のことを「東の洛陽(周の都)と言っています。周の基礎を築いたのは文王と太公望。二人は仁政で知られる名政治家ですが、この二人の出会いを描いた襖絵が松島の瑞巌寺にあります。古代中国の話が出てきたついでに、ちょっとこんな話も、と思うのは、彼の「眼帯」のことです。
政宗がまだ5歳、梵天丸と呼ばれていたころ、彼は罹患した天然痘(疱瘡説も)が原因で右目の視力を失ったことは皆さんよくご存じですが、その日以降、日常生活で何か不都合があると、みんなその所為にしてふさぎ込んでしまう梵天丸に、彼の傳役(教育係)が、「いっそ、それ、切っちゃいましょう」と言って、梵天丸の持っていた小刀で患部を抉り取った話は、前述の(傳役)片倉小十郎の時に詳しくお話ししましたので、ここではそれ以外の、高い教養人政宗、知識人政宗を示す、「黒の眼帯」にまつわる話を、と思っています。