武蔵の父(無二)に関しての資料はあまり多くはないが、彼は武芸、とりわけ「十手」の使い手だったという。武蔵の幼少期にこの父は武蔵に連日武芸の特訓を施したが、一介の、十手を扱う『武芸者』の父の下では、武蔵の幼少年時代は、そう豊かな日々とはいえなかった。
だから、少年・武蔵は、「よりよい生活」を希求した。しかし、自分にはその夢を実現するためのこれといった手段がない。恃むは、父から受ける連日の武芸の特訓のみ。彼は必然的に「剣技競い」の生活を選択する。敵を求めて全国を歩き、そこで剣技を競い勝利を重ねることで、その名声がその土地土地の藩主に届くことを希った。
目指すは安定した収入が得られる「藩への仕官」であった。その、武蔵の初の「剣技競い」は13歳の時だったと「小倉碑文」(後述)には刻まれている。そして最終決闘は、あの巌流島対決で、これは武蔵30歳の頃といわれている。武蔵の全決闘戦績は、60戦以上戦って、不敗。
しかし武蔵は、その「『剣技競い』生活」を、この巌流島以後はやめる。「剣の道」の追求はやめないが、「勝負に拘る」人生は30年でやめて、以後の、それまでとほぼ等量の30年を、今度は「五輪書」に代表される、物書きと思索の「哲人武蔵」に生きるのである。
「勝負に拘った」時代、武蔵には決闘に勝っても勝っても、仕官の道はこなかった。それは、あるいは、武蔵自身の問題、例えば、勝利のため、仕官のために「勝負に異様に拘る武蔵の、あまりの考え方の偏屈さ」に周囲が「引く」場面があった所為かもしれない。然しそうした風評は、本人にとっては、そのことに気を配ることさえ気が付かない程度の些末な問題だった。
私は、武蔵の「就活失敗」最大の原因は、やはり、当時のトレンド、時流にあったのではないかと思う。武蔵の初決闘が13歳の時だったと先刻、書いたが、それは1595年前後の、秀吉が小田原の北条氏を降伏させて事実上の日本一になってから5年ほど経った時期、92年には京都に絢爛豪華な伏見城が完成している。日本は秀吉のもと、泰平の日々が続いていた。13歳の少年が初決闘で勝利したと聞いても、周囲は「ほう、元気のいい坊やだな」くらいの反応しかない世間の風向きだった。
その後の、4年から5年の間の武蔵の連戦連勝も、感覚としては、まさに、その延長線上だった。何せ、天下は泰平なのである。全国から血眼で剣豪を捜し出し自陣営に引き入れて、少なくとも武芸の面だけでも他の後塵を拝することがないような算段をするという風向きでは、世間全体がなかったのである。剣豪が必要のない時代、剣豪同士が果し合いをして勝ったところで、それが大した意味を持たない時代になってしまっていた。
武蔵が「五輪書」を書いたと伝えられる霊巌洞
そして、時は流れて1600年の関ヶ原。ここでの武蔵の選択が、「剣の達人・勝負師・武蔵」の運命を決めた。武蔵はこの関ヶ原では、父の関係もあって宇喜多秀家系に与した。要するに武蔵は西軍についたのである。この戦で宇喜多軍は福島正則軍と激突する(この戦いが関ヶ原では最も激戦だったと言われている)が、この戦で宇喜多軍の一人としてそれなりの活躍をした武蔵は、家康や東軍の有力武将から、当然、目をつけられてしまう。家康にしてみれば、関ヶ原で西軍についた者は「謀反人」であり「殺人者」だった。家康が「関ヶ原」のあと、各地の大名に差し出させた誓紙には「謀反人や殺人者を、新たに召し抱えない」という一節があった。だから、武蔵は「関ヶ原」以後、とりあえずは身を隠さねばならなかったのである。
武芸者というより、逃亡者だった。そんなある日、武蔵は佐々木小次郎の風評を聞く。「現代最強ではないか」という世間の噂は、剣技一筋でここまで来た武蔵にとって看過できない事態である。