時は文化・文政。江戸時代前期の元禄時代と並んで、町人文化が大いに花開いた化政時代は、浮世絵、歌舞伎、川柳、滑稽本など、出版・教育、娯楽が普及した「余裕ある時代」だった。将軍は第11代・家斉。例の、あの、一人で55人の子供を作った人。そういうことにかまけていられるくらい、政情は安定していた。この次の将軍あたりから江戸幕府はだんだん陰りが見え始め、やがて、終焉に向かっていくのだが、この家斉の時代に、「大日本沿海輿地全図」という「とんでもないモノ」が産まれた。要するに、これは「地図」である。
ある人物が、あの時代、日本中を一歩一歩歩いて、測量して、完成させたもの、まさに「手作りの日本地図」である。その、一歩一歩、実測で地図を作り上げた男の名は伊能忠敬。
彼が歩いた歩数は4000万歩。歩行距離は3万5000キロ、という。しかし、これは、彼が全生涯をかけて歩いた距離や歩数ではない。彼は1745年生まれ1818年死去の、享年74。これは、そのうちの最晩年の、16年間だけの「記録」、言ってみればこの記録は、4つあった彼の「人生」の一部にすぎないのである。と、ここにきて多くの読者は「4つあった人生」って?、と仰るだろう。実は彼は一生のうちで4種類の人生を体験し、しかも、その4つともがそれぞれに見事に充実した人生だった。今日はその彼の、「奇跡の人生」を辿って行く。
伊能忠敬銅像(佐原公園)
伊能忠敬は、今の、千葉県九十九里町にあった地引網漁の漁師さんの3男坊としてこの世に生を享けた。彼は父の仕事をよく手伝う、近所でも評判の孝行息子だった。少年時代の彼は、夜明け前、父と一緒に船に乗り込んで、前夜のうちに仕掛けてあった地引網の現場に行き、網を巻く作業を手伝ったり、水揚げの後は明日のための網を設置したりという作業を、健気に繰り返していた。網を仕掛けてある現場につくと、「そのような仕事」で休む間もないが、その現場への行き帰りの時間は船に揺られているだけで、ほかに、何もすることがない。彼は、船の上で仰向けになって、来る日も来る日も、ただただ夜明け前や日没後の大海原の上に輝く満天の星を見上げるばかりだった。
そのうち、「あの、星っていったい何なんだろう」ということになっていく。「あれ(あの星)は、ここからどれだけ離れているんだろう」「生き物はいるんだろうか」「どのくらいの大きさのものなのか」「暑いのか、寒いのか」などなど、星への興味はどんどん膨らんでいく。そして、この子供は、自分は将来、できることなら、「そうしたこと」を勉強する人になりたいなという、漠然とした、しかし大きな夢を抱くようになっていくのである。そのうち、この「星好きの、お父さんの手伝いをよくする孝行息子」の評判は、近郷近在に聞こえるようになっていった。
下総(千葉県)の佐原というところに「伊能」という造り酒屋があった。伊能家は当主が病気がちで、病床に臥せってからは家業はだんだんに傾いていった。やがてその当主は亡くなり、未亡人が独り頑張っていたが、伊能家では家業の本格的立て直しのために、未亡人の相談相手にとして、まじめで勤勉な婿養子を探していた。その候補として、当時、近郷近在に評判の高かった、あの、「立派で勤勉な漁師の孝行息子」が挙げられ、その子は、伊能家に婿養子として入っていく。18歳の時だった。この18歳までの、漁師の孝行息子時代が、彼の一つ目の人生。