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【歴史編】「渋沢栄一/第5回」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「渋沢栄一/第5回」編

「渋沢栄一/第4回」はこちらから

豪農の跡継ぎとして生を享けた彼は、近所に住む従兄・尾高惇忠の影響で攘夷思想に出会います。打倒幕府を叫ぶ若者に成長した彼は2歳年上の従兄・喜作と、同志を募るべく近郷近在を奔走、やがて故郷の深谷・血洗島を出て、攘夷思想の発祥の地の水戸で同朋と意思を確認しあったり、江戸では剣道場などを訪ねて新たな同志を募ったりしました。

そんな或る日、栄一らは平岡円四郎という人物に巡り合います。彼は一橋家の慶喜の側近。その豪快な人柄に栄一らは惹かれていきます。やがて、この平岡の感化で栄一らは一橋家に仕官するようになります。つまり、彼らはここで農民から武士に大変身するのです。その新天地・一橋家で栄一らは慶喜の様々な要求を一つ一つ、誠実にこなし慶喜の信頼を得、役付きの武士に昇進します。倒幕を目指す青年はここで幕府を支える「幕臣」になっていきます『3人目の本人』の誕生です。

慶応2年(1866)夏。第14代将軍・家茂が死にます。その翌月に慶喜は徳川宗家は継いだものの、後継将軍就任には難色を示し、位は将軍後見職のまま。そんな時に、フランスのナポレオン3世から幕府宛に、来年開かれる『万国博覧会』への、元首招請と出品要請の書簡が届きます。こんな時期でしたから、慶喜は「自分はいま、その時にあらず」と、弟の14歳の徳川昭武を名代として派遣することにします。その際、この幼昭武の警護役として水戸藩士7人が選出されましたが、栄一にも同行せよとの命令が下ります。栄一に課せられた任務は二つ。昭武に関する金銭の出し入れの面倒を見ることと、万博が終わってもすぐ帰ってくるな、つまり、昭武の留学にとことん付き合えというものでした。栄一の心は踊ります。動乱の日本を離れて、彼の地で、やがて来る新時代に必要な学問をナマで4,5年じっくりと学べる!

―――こうして栄一は思いもよらず、『4人目の本人』を経験することになるのです。この海外出張命令が出た6日後の12月5日、周囲の声に抗せず、慶喜は第15代将軍に就きますが、そのほぼひと月後、慶応3年(1867)1月11日、栄一を乗せた船は横浜を出港します。マラッカ海峡、インド洋を経て紅海に進み、パリに着いたのは3月の6日。初めての洋行生活は当然ながら驚きと発見の連続でした。毎度の食事しかり、刀の扱いしかり。しかし、その中でも最も驚いたのがスエズ運河の工事でした。

聞くところによると、全長160キロメートルにわたって水路を穿ち、紅海と地中海を結ぼうとしているのだそうで、これができると、喜望峰を回らずにヨーロッパに着けます。想像を絶するこの大工事の費用は一体いくらで、誰がどうやってそれを調達するのか?栄一は声もなく、茫然とその壮大な工事を見つめていました。また、パリに着くと、眼前に広がる「西洋文明」の豊かさにも圧倒されます。凱旋門しかり、石造りの建物しかり、石畳のパリ市内の佇まいしかり。どうしてあのようなことができるのか?

―――栄一はそのことについて、早速、訪欧団の世話役を務めていたフランス人のフリューリ・エラールに質問します。その時のエラールの話から、栄一は西洋の圧倒的豊かさの源泉を知ります。それは、「銀行の概念」でした。

―――元銀行家だったフリューリ・エラールは、銀行とは広く人々からお金を集め、そのお金を事業に投資し、その事業によって得た儲けを、再び人々に還元する存在なのだということを説きました。栄一は自分が17歳の時、地元の代官から突然、500両もの大金を、いますぐ出せという理不尽な要求を思い出しました。あの幕府の下級官僚の頭ごなしの高圧的態度が自分の反幕思想を更に炎上させたのだということも思い出しました。このフリューリ・エラール理論では、誰かが進んで出した金を集めて、やる気のある人、アイディアのある人に投資して、多くの人の利益になるようなものの実現を目指す、そして、そこで得られた利益を、お金を出してくれた人々に還元する―――つまり、個人の利益追求が同時に公の利益にもなる。これが「銀行本来」の姿で、それが、西洋文明の強さ、豊かさを支えることになる―――「個人の幸せ」は「公の利益」につながらなければならない、「民」の利益の追求が「公」を担っていくという考え方を、この時、栄一は深く、心にとどめたのでした。

こんな話があります。エラールの経済理論、銀行理念、「民と公」の役割などの「西洋思考」に心酔した栄一は、宿舎に新しくやってきた指導官の方針もあって、この際、「身も心も、姿かたちも全部西洋に倣おう」と、まず、外観から行動に着手します。ある日、栄一はすっぱりと髷を切りました。そして日本から着て来た羽織、袴、草履を脱ぎ棄て、スーツにYシャツ、蝶ネクタイ姿になります。この他にも、燕尾服やシルクハット、ステッキを購入して、その姿を写真に撮り故郷の妻に送ります。「ご覧。(私は昨日までの私とは断然、違うだろう!)これが『西洋』なのだ!」というメモを添えて。―――それを見た妻からの返事があります。「髷を切った貴男様のお姿はあさましく、見るのもつろうございます」 嗚呼。

さて、そのフランス生活ですが、結局、1年ちょっとで終わってしまいました。慶応4年(1868)3月21日、日本から突然、帰国命令が届いたからです。その頃、日本では大変革が起こっていました。その前年の秋・10月14日、慶喜は政権を朝廷に返上したのです。政権交代が完了するには、その後の戊辰戦争を経なければなりませんが、その頃の日本国内の動きを箇条書きに列記します。〈その年の1月3日に鳥羽伏見の戦いが勃発。その3日後に慶喜は大阪の港から軍艦・開陽丸で大阪を脱出。12日に江戸城入城。そのひと月後の2月12日には江戸城を出て上野寛永寺で謹慎生活。その3日後の15日には東征軍が京都を進発。そんな中、上野にいる慶喜を守ろうと23日には、慶喜護衛のための彰義隊(頭取は渋沢喜作)が結成される。3月14日。西郷・勝会談で討幕軍の江戸城総攻撃中止と江戸城の開城が決まり、4月11日、江戸城は開城。慶喜は寛永寺から水戸へ移動、そのひと月半後、慶喜は静岡70万石に封ぜられ、静岡・宝台院で謹慎生活を送る。因みに、江戸が東京に改称されたのは7月17日。明治に改元されたのは9月8日。〉昭武と栄一が帰国したのは、明治元年(1868)の11月3日。帰国した栄一はいったん、故郷・深谷の血洗島に帰ります。そしてひと月ほど経ったその年の暮、栄一は慶喜のいる静岡・宝台院に、昭武の手紙を携えて向かいました。宝台院でお訪いを告げると「庫裡で待て」との返事。そして、待つ渋沢の前に一人現われたのは、慶喜本人でした。お付きの者もなく、座布団もなく、畳の上に直接座って自分相手に言葉を交わす慶喜を見て栄一は涙が止まりません。栄一はすぐ妻子を東京から呼び寄せ、静岡の慶喜のおそば近くで生活することを決断します。もともと、静岡藩士への道を選ぶつもりはなかった栄一は、そこ(静岡)で所謂浪々の身に。これが栄一の『5人目の本人』です。

やがて栄一はその静岡で、フランスで知った銀行の仕組みを取り入れた「商法会所」という組織を作ることを思い立ちます。これは、静岡藩内の豪農豪商に拠出させた資本と、政府からの拝借金を元手に商業活動を手広く展開して藩の財政を富ませようという試みでした。結果、大成功。この動きは明治新政府の目に留まります。新政府が廃藩置県を実行したのは明治4年(1871)のことですから、この時点では静岡藩はまだあくまでも「藩」です。「れっきとした新政府があるのに、一地方藩ごときにこんな成功を収めさせていいものか」と思った新政府は、栄一をヘッドハントします。栄一は反発します。「慶喜様のご恩を受けたものとして新政府に仕えることは出来かねる」

―――しかし。新政府の重鎮の一人・大隈重信はその時、栄一をこう説得します。「日本のために仕事をするのに過去の経緯は関係ない!」この言葉を意気に感じた栄一は一転、政府・民部省(現・財務省)の役人になります。渋沢栄一、『6人目の本人』です。新政府の役人になった栄一は様々な改革の先頭に立ちます。赫赫たる成果を挙げながらも、栄一は、のちの日本独自の銀行設立を目前にして、国家予算の使い方を巡って政府の高官と対立。栄一は3年半で、「役人」を辞去します。彼はつくづく思います。「社会の進歩を指導する原力は政治にあらずして実業なり」―――新政府の役人から民間の事業家へ。実に『7人目の本人』誕生です。

―――以後、彼が生涯にわたって携わった事業は銀行、鉄道、船、郵便、ガス・電力、観光、ビール、病院、それに大学などなど凡そ500に上ります。一つ一つについて触れたいのですが、これについては、多くの書がそれに触れていますので、それをご参照下さい。

栄一の家は東京北区の飛鳥山にありました。その大部分は、空襲で焼失してしまいます。その邸宅の芝生で、ほかの親戚の子供たちと一緒になって栄一翁と遊んだと楽しそうにお話なさるのは、前号で少しご紹介した、今年98歳でなお矍鑠、今や、栄一唯一の孫、鮫島純子さん。お孫さんの鮫島純子さんは、「おじいさまは私たち、一人一人の口に飴玉を入れて下さっては頭を撫でて、『よう来て下すった』とおっしゃいました」―――親戚の幼児たちにも、一人一人、きちんと丁寧語で応対する―――『7人の自分』を生きた日本の「実業の父・渋沢栄一」の心根をここに見た思いです。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。