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【歴史編】「柴田勝家」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 北陸に散った、武骨・寡黙の‘もののふ’の生涯 柴田勝家

「柴田勝家」前編はこちらから

彼の女性話は、「お市の方」との結婚に尽きる、というより、この他には、ない。この結婚は、「清州会議」(清州城で開かれた山崎合戦の後の、織田家の跡目相続決定会議)のあとだと言われているから、少なくとも天正10年(1582)7月以降のことである。この時、お市は再婚(前夫は北近江の領主・浅井長政)で35歳前後で3人の子持ち。一方、勝家は初婚で、還暦前後(彼の生年が大永2年(1522)だとして)の年齢であった。凡そ六十年もの間、勝家には特に艶聞の類はなかった。

しかし、そんな勝家も、その二十数年前、淡い恋をしたことがある。相手は、勝家が織田信行を見限って信長の邸に出入りするようになった頃、その信長の邸で、時折見かけた女性である。女性と言っても10歳ちょっとのまだ子供、その名はお市。信長の妹である。(当時、女性は、初潮を迎えて、子供を産むことが出来る身体になった12歳頃が適齢期と言われていた。信長、秀吉、前田利家らの妻はみな12歳。だから、この歳でも、充分に結婚対象ではあった)。

柴田勝家は当時35歳くらいの男盛り。でも「雲の上のような人」の妹だから初めから叶わぬ恋だった。しかも、信長は異常にこの妹を可愛がった。結局は、信長は天下取り戦略の一環として、お市を浅井長政のもとに嫁がせるのだが、その時、お市は25,6歳である。つまり、信長は、12歳が適齢期の時代に、この年まで、お市を手許においていたのである。勝家は、このお市の結婚を「政略結婚か。お可哀想に」とだけ思った。ほかのことは考えないようにしていた。「人生50」のこの時代、勝家はこの時、もう、その年を超えていた。ところが、事実は小説よりも奇なり。数年後、その浅井と信長の義理の兄弟が、敵同士で相まみえることになる(姉川の戦い)。

浅井長政は結局は追い詰められた。最後は、信長軍の5人の師団長の一人、羽柴秀吉に城を囲まれ、落城寸前。そんな「小谷の城」では、こんな夫婦の会話が交わされていた。「私、貴男とご一緒にあの世とやらへ参ります」というお市。浅井はこれを聞いて、静かに首を横に振った。「気持ちは嬉しい。だが、そうは行かぬ。俺は行きがかり上、ここで死なねばならぬ。だが、そなたは違う。何と言っても信長殿はそなたの兄君。悪いようにはすまい。それに私たちには子供が居るではないか。その子どもたちのためにも、お市、生きてくれ!」―――お市と三人の娘は、この浅井の言に従い城を出た。

小谷城が紅蓮の炎に包まれたのはその直後だった。燃え盛る城の中で浅井長政は死んでいく。未亡人・お市は三人の娘と一緒にまた信長のもとに帰っていった。その悲しみを湛えたお市を再び目にした勝家は、改めて、美しいと思った。その恋情は旧に倍して募る。しかし、信長がいる限り、彼女はやっぱり高嶺の花。「ありえぬ話」に一人悶々とする勝家だった。ところが、そのまた数年後、これまた、あろうことか、その信長が本能寺で横死するのである。この、信長の死は各方面に各様の影響を与えたが、勝家とお市との結婚話もその一つだった。日頃、何かと自分のことを気にかけてくれたということで、信長の三男・信孝は、それまでにもバツイチの「お市叔母さん」と独身男・柴田勝家をひきあわせたりしていたが、直接、結婚話を具体的に展開させたのは、秀吉だった。彼は前述の「清州会議」で、結局、自分のゴリ押しで、後継に決まりかけていた勝家が推薦する信孝の線を消し、自分が背後でどうにでも操ることが出来る、僅か3歳の赤ん坊(本能寺で戦死した信長の長男・信忠の嫡男。三法師)を後継者に決めたことへの、多少の贖罪の意味もあったかもしれない。

融通無碍な秀吉の面目躍如である。秀吉は、積極的に仲を取りもった。会議に参加した有力諸将の同意も得た。勝家は、秀吉のこの尽力に心から感謝した。しかし、それからまもなく、両者は「ポスト信長」を巡って、激しく対立することになる。戦国の習い。それはそれ、これはこれ。両者の対決は、賤ヶ岳で始まり、秀吉が勝つ。居城の北之庄まで敗走した勝家は、城内で待っていた妻・お市と三人の娘に対して、「自分は行きがかり上、ここで死なねばならぬが、貴女方は、4人、ともに生きなさい」と申し渡す。

「柴田勝家」元NHKアナウンサー 松平定知

柴田勝家像(写真提供:福井市立郷土歴史博物館蔵)

「戦況」も、「攻めている敵」も、前夫・浅井の時と余りにも酷似したケースに驚くお市だったが、彼女は、今回は毅然とこう言った。「これまで、私の人生は、みんな私以外の人が決めてきました。私にもこの時代を、主体的に生きたという証が欲しゅうございます。これが最後の機会。私は死んでもあなたとご一緒。ご一緒に、死にとうございます。」――

―この時、武骨な「鬼柴田の目」には涙があった(と思う)。生まれて初めての涙である。 このあと、勝家は、妻の連れ子三人の娘を、無事、北之庄の城から脱出させたあと、城内でお市と枕を並べて命を絶った。しかし、この時にはもう勝家の目に涙は無い。勝家は、ゆっくり頭をめぐらせて、隣で死んでいるお市を見る。

お市は、もう、何処にも行かない。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。