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【歴史編】「藤堂高虎」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 独自の職能と時勢を見る確かな目で、4000倍の昇給を果たした男・藤堂高虎

彼が仕えた10人の主君の名前である。浅井長政。阿閉貞征。磯野員昌。織田信澄。豊臣秀長。秀保。秀吉。徳川家康。秀忠。家光の10人。いまさら、説明は要らないメンバーだが、老婆心ながら簡単に紹介しておくと、一人目の浅井長政、彼は近江(滋賀県)北部の雄である。信長の妹・お市の方の最初の夫であり、茶々・初・江三姉妹の父である。近江出身の高虎にしてみれば、最初の仕官先に「おらが大将、浅井」を選んだのは必然だった。仕官は高虎15歳の時。初陣は姉川の戦い。彼は体力腕力抜群の少年だったから、この初陣で、敵の首級を一つ上げたという。

大いに将来を嘱望されたが、給料はなかった。主君・長政はその姉川の戦いで死去。だから高虎は長政の軍営を離れる。これも必然。彼がその足で向かったところは、同じ近江の阿閉。ここでも、高虎は、主君・貞征の命令で2人の不穏分子を暗殺するなど勇猛ぶりを発揮する。しかし、無給の上、その「暗殺」に対する恩賞も、特になかったので、主君・阿閉の器量に失望した高虎は自分の意思で阿閉を離れる。3人目の磯野に仕えたのが18歳の時。磯野も近江人だった。

磯野はもともと、浅井の家臣で姉川の戦いの時は信長の本陣近くまで切り込む活躍をした勇猛な侍だった。その彼は、大男・高虎の豪の者ぶりを人づてに聞いていたから、即刻採用。高虎はここで初めて、80石の給料を貰うのである。しかし、やがて磯野は信長の軍門に下り、信長輩下になるがその後出奔,高虎は磯野の養嗣子の織田信澄の家来になる。高虎の武勇を聞いていた信澄は、彼を親衛隊に編入し、母衣武者に抜擢した。高虎は張り切って勤めたが、給与は据え置き。

「藤堂高虎」元NHKアナウンサー 松平定知

津城(三重県津市丸之内)

結果、そこも飛び出す。次の秀吉の弟・秀長、と秀長の養子秀保以下のご紹介は説明不要だろう。この、5人目の主君・秀長時代に、彼の知行は飛躍的に伸びた。秀長は高虎の才能を高く評価し、300石で採用する。高虎21歳の時だった。

「秀長さまの御恩に報いねばならぬ。何より求められるのは自身のブラッシュアップだ。秀吉さまには、加藤清正や福島正則といった勇猛な『いくさ上手』が、綺羅星の如くいる。武功だけで出世することには限界がある。そうではない〈新・高虎〉の誕生を、弟君の秀長さまの下で目指そう」――そう思った彼の脳裏に閃いたのは「城」だった。

戦う拠点としての城、しかもそれは、砦に毛が生えたような室町時代以来の粗末な山城ではない。戦国の世に入って平地にも城を築くようになると、自分の領地を守りながら、敵を撃退する防御のかなめとしての城の存在が必須となる。「攻められにくい城を作ろう!」――もともと彼は、同郷・近江の穴太衆と呼ばれる石工集団とは交流があった。彼らには石垣の積み上げ技術などの知恵と実技を教わり、自身も独自で研究を重ねた。その結果、彼は「高石垣と堀の設計」に独自性を持つ城を作り上げ、やがて、「城造り(縄張り)名人」と呼ばれるようになる。この「城造り」の「専門性」を身に着けることで、彼は、他の凡将との差別化に成功し、競争を勝ち抜き、秀長のもとで、地位も、俸給もぐんぐん上昇していく。32歳で家老の身分になり、禄高も2万石にアップ。「このまま、一生、秀長さまに」と思っていた矢先、その秀長は病死。そのあと、成り行きで、秀長の養子・秀保に仕えるがその秀保も病死。高虎はそんなこともあって剃髪して高野山に籠ってしまった。そんな高虎を娑婆に戻したのは秀吉だった。秀吉はわざわざ高虎に「唐冠形」の「兜」を授けたりして厚遇する。

しかし、そんな秀吉も死ぬと、高虎は考えた。「幼い秀頼さまを中心に豊臣政権はこのあとどうなるか」――『豊臣政権の明日』に危惧を抱いた高虎は徳川に急接近する。秀吉の副官だった石田三成はその変心を大いに詰るが高虎は意に介せず、関が原以降は徳川の重鎮になっていく。高虎は、徳川将軍3代に仕え、寿永7年(1630)に死ぬ。享年75だったが、最晩年、伊勢の津藩主の時の俸禄は、既述の32万石。初任給80石の実に、4000倍だった。「築城名人」の彼が生涯にわたって手掛けた城は、平城、山城、海城、併せて18とも20ともいわれる。このほか、日光東照宮の造営奉行や上野寛永寺をはじめとする上野界隈の街づくりなどにも寄与し、外様でありながら家康の死出の床に同席を許された数少ない武将だった。加之、南禅寺には、家康ともども高虎の木像も祀られている。ことほど左様に、高虎は「大成功者」として死んでいく。しかも、「その功績」は、一代で終わることはなかった。

この高虎のお陰で、藤堂家は江戸時代を通して、幕末まで改易なし、大名であり続けたのである。しかし、その藤堂家は戊辰戦争の時、幕府軍形勢悪しと見るや、薩長軍とともにその幕府軍に銃口を向けた。これを見て、当時の事情通は、「さすが藤堂、裏切り上手」とコメントしたが、さあ、このコメントを、天上の高虎はどう聞いただろうか。

「藤堂高虎」前編はこちらから

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。