加藤清正と豊臣秀吉とは姻戚関係にある。秀吉の生母(大政所)と清正の母は従姉妹だと言われている。そんなことや、清正の父が清正3歳の時に死んだりしたこともあって、清正は実子のいなかった秀吉・於ね夫妻に幼い時から可愛がられた。こうして秀吉夫妻のところで大事に育てられた人たちを「豊臣恩顧の武将」というが、清正はそのグループのいわば兄貴分だった。
秀吉は、信長の浅井長政撃破の際、その功労抜群により信長から農民出身者として初めて一国一城の主となることを許されたが、秀吉がその長浜城主時代に清正は(秀吉)の小姓になっている。(長浜は旧名は「今浜」だった。しかし、自分を抜擢してくれた信長さまに何とか謝意をと考えた秀吉は、信長の「長」の一字をいただいて今浜を「長」浜に変えた。「人たらし」秀吉の面目躍如である)。清正は、その後も秀吉の側近として、戦時には戦場で、平時には財務担当として、彼を支え続けた。
ポスト信長レースにおいては、当然秀吉側にいて大活躍。賤ヶ岳の戦いでは敵将の首を獲り、七本槍の一人と呼ばれた。このほか朝鮮半島侵出では、秀吉の中核軍の一つとして積極的に参加。虎退治や蔚山の籠城作戦にその名を遺した。
そのため、前任者の佐々成正が肥後国人一揆で追放された後、天正16年(1588)に秀吉から、肥後立て直しのために肥後半国を与えられた(あとの半分は小西行長)。
その3年後には城を全面的に改修し始め、慶長5年(1600)頃には天守が完成する。その年の「関ヶ原」では、秀吉の死後、自分を豊臣政権の中枢から外した石田三成を嫌い、非三成側にたった。そのことへの恩賞の意味もあって、家康は、肥後の残りの半国を彼に与え、ここに清正は52万石の大大名になったのである。
慶長11年(1606)には城が完成し、翌年、地名を、それまでの「隈本」から「熊本」に改め、城の名も熊本城となった。清正は前任者・佐々成政の轍を踏むまいと、領民に寄り添った領国経営(領内の治水、干拓事業などなど)を心掛け、後年、熊本県民からは「清正公さん」と呼ばれ、親しまれた。
清正は前述のように、「関が原」こそ、反・石田三成の立場に拠ったが、それ以外は生涯、豊臣恩顧の武将としての立場を弁え、秀吉、於ね、淀殿、秀頼に尽くし切った男だった。それもあって、家康の時代になっても清正は、家康から一定以上の信頼を得た人物だった(肥後一国の大大名の地位のほかにも、清正の次女・八十姫の夫は、家康の10男。彼は、ご三家・紀伊藩の初代藩主の頼宣である)。
その清正の最晩年の最大イベントが、いわゆる「二条城の会見」であった。当時、将軍職を秀忠に譲り、自分は駿府に隠居していた家康が、後水尾天皇即位の式に参列するため京都に赴いた際、秀吉の遺児、秀頼に会った、というイベントである。実はこの試みはその6年前にも提案されていたのだが、淀殿の方が断ってきていた。
今回も、淀殿は秀頼の身を案じ難色を示したが、「今回も拒否なさると、これは関東(家康)との武力衝突にもなりかねませぬ」という側近の強い説得と、清正の、「秀頼さまは、我が身を挺してお守り申しあげます」という言葉におされて、しぶしぶ承諾し、実現したものだった。この時の秀頼の立ち居振る舞いは実に見事だったという。清正は、万一の折にと、懐に隠していた剣を抜くことはなかった。秀頼のあまりの凛々しい成長ぶりに、それまで、秀頼を、大坂城や伏見城の奥深くで育った「深窓のボンボン」くらいにしか思っていなかった家康は大いに焦った。徳川の一族支配のためには、一刻も早い秀頼排除が必要だと思った。それが、あの、大坂の陣につながっていく。
上々の首尾で会見を終えた秀頼を、大坂城の淀殿のもとに送り届けた清正は、その直後、意気揚々と領国の肥後に戻る途中、船の中で急死した(と言われている)。もっとも、この「死」には、いっぱいの解説・怪説がある。例えば、「二条城での彼の食事に毒が入っていたとか、秀頼用に出されたのを役目柄、毒見したためだったとか、イヤ食事ではなくおやつに出された饅頭に毒が盛られていたのだとか、いやいや直接の死因は毒ではなく、持病の難病のせいだった」とか、まあまあ、まことに賑やかなことである。この清正の死は、二条城会見に同席した、秀吉側の浅野幸長や池田輝政の死とほぼ同じ時期で、三人とも突然、だったことから周囲は驚いた。家康がどんなに清正を厚遇しようとも、清正は秀吉の股肱の臣だったのだから、心底、心を許してはいなかったのだとか、あれは秀頼排除にはっきり舵を切った家康の実行行動の第一歩だったのだとか、様々な憶測を呼ぶことになる。
清正の命日は慶長16年(1611)6月24日。 因みに誕生日も、同じ6月24日(永禄5年・ 1562)である。