宗茂の「2人の父」が仕えていた豊後・大友宗麟は、フランシスコ・ザビエルらの宣教師に領内でのキリスト教布教を許可したキリシタン大名としても有名だが、当時、九州制覇を狙っていた薩摩の島津義久との間の「耳川の戦い」で、宗麟は多くの重臣・家臣をなくした。
この事態に、宗麟は信長に接近して島津氏との和睦を斡旋してもらう約束を取り付けるが、この約束は「本能寺の変」で立ち消えになってしまう。
その後、秀吉との間に、秀吉傘下になる事を条件に軍事的支援を受ける約定を交わした。これが成立した翌年、秀吉軍は九州平定を目指して、大挙九州に乗り込み、各地で島津軍を破っていく。その戦いのさなか、宗麟は病死するのだが、その宗麟の二人の重臣の息子・立花宗茂は、当然「秀吉派」として働き勝利に貢献する。
結果、宗茂は、秀吉の九州征討に当たって、「その働き抜群」と、秀吉から柳河藩を拝領するのだが、こうした経緯があるから、「筋の通った生き方」を信条とする宗茂は、「関ケ原」では、秀吉内閣の忠実な官房長官だった石田三成側についたのだった。
そのことに迷いは微塵もなかった。そして、敗戦。当然、宗茂の領地は、全て没収、改易となってしまった。ところが。彼は、ここからが違った。
「関が原の戦」で三成側につき、敗戦によって改易されるも、大名として、よその土地で、石高を減じられて復帰した「西軍」の敗将の例はあるが、宗茂は、「柳河の旧領」を、そっくりそのまま、『完全回復』するのである。こんな例は、他にはない。これは宗茂の「武働き」によって、ではなかった。まさに、彼の「人間力」によって、であった。宗茂の筋の通った生き方に共感する、宗茂の周りの人々が。みな総力を挙げて、彼の復権のために尽力するのである。
宗茂が西軍についた「関が原」の戦。しかし、実は、その「関が原」に、宗茂は行ってはいない。その時、彼は近江・大津で、徳川方の京極高次と戦っていた。(この、高次の妻はお初である。信長の妹、お市の方の3人娘の次女。長女は淀殿、秀頼の生母。三女は秀忠夫人・お江)。
このいくさは宗茂が勝ったが、関が原には間に合わなかった。いくさ当日・9月15日の朝、関が原の戦場は、東から西へ、突如、白く深く流れる霧に覆われ、その霧を利用し、三成側のシンボル・秀頼が出てくる前に決着をと、家康は急戦を仕掛けた。その判断と小早川秀秋の裏切りなどもあって、両軍の兵士、合わせて15万超という天下分け目の戦はその日のうちに西軍の負けで終わった。
しかし、その時、現地にいなかった宗茂は、「西軍敗北」の報を聞くと大坂城に駆け付けて、戦闘継続を強く主張、それが受け入れられないと分かると、すぐさま、海路、領国・柳河に舞い戻り、そこで、自分一人の、徹底抗戦体制をとった。誰が見ても無意味で無謀なこの試みを、諌めに、鎮めに柳河まで出向いたのが、あの朝鮮半島の蔚山の城での、宗茂の「男気」に、心から感謝した加藤清正だった。
この清正や、福島正則といった豊臣恩顧の武将たちは、朝鮮半島侵攻前後の三成の立ち居振る舞いに憤慨して、この時は、反三成の態度を鮮明にしていた。こうした秀吉の腹心の部下たちの不協和音をうまく利用したのが家康だったのだが、ま、その話はこの宗茂譚には関係ないので措くとして、「関が原後」、清正らを通じて知った宗茂の「筋の通った生き方」に、家康は一人の人間としてシンパシーを持った。
もう一人、この宗茂の生き方に共感した男がいた。本多正信である。家康の出身地・三河の侍で、家康の側近の一人である。一時は三河で起こった一向一揆の隊長になって、藩主・家康に立ち向かったこともある。結局、家康によってその一揆は鎮圧されたが、「オラが殿様」に反抗した隊長・正信は、以後、北陸地方を放浪する日々を送っていた。
しかし彼の優秀さを惜しんで彼を助けた男がいた。同じ三河の出で、家康の信頼篤い大久保忠世であった。大久保のおかげで命拾いをした本多正信は、もともと、優秀な器量の男だったから、徳川政権の中で、次第に影響力を強めていく。その正信に見いだされたのが宗茂であった。
この本多正信の提案で、宗茂は、『いっぱいの経験を持っているから』と2代将軍・秀忠の「お相伴衆(話し相手)」に抜擢されるのである。秀忠も、優れた資質を持った人間だったから、立花宗茂の「いいところ」を肌で感じ、そのことを家康に報告する。こういう「人の輪」が、関が原での敗軍の将の「旧領完全回復」という空前絶後の「厚遇」につながっていく。
こうしてみると、人間、最終的には「人」なのだとしみじみ思う。当人が、毎日、何を考え、日々をどう生きたのか。周りはみんな、「そこ」を見ている。
彼の後裔は、江戸時代を生き、明治、大正、昭和、平成とその血を今に伝えている。福岡県柳川市にある料亭「御花」は、初代・柳河藩主・この立花宗茂の、末裔が営んでいる料亭である。