企画は実行できる仕組みを整えなければ成功しない。お題目を唱えるだけでは絵に描いた餅である。時には細かすぎると嫌われても、確実に公平にやり通すことが、結局はその企画を成功に結びつける。人間社会の出来事だから、そこに人間がいる以上、ある程度の「情実」が大切、と主張する向きもあるだろうが、三成は、あえてそこを「切った」。
一切の情実を排し、冷徹なまでに「公平」を貫いた。「事実」を脚色なく伝え続けた。そうした姿勢が「事業成就」への「近道」だと彼は割り切った。しかし、それにより、加藤清正、福島正則といった、秀吉子飼いの、いわゆる武闘派の多くとは反目する展開になる。
ザックリと図式化すれば、「三成は、戦場での武功は皆無のくせに、何の汗も流さずに頭脳だけで何だかんだと意見具申をして秀吉さまにとり入っていい思いをしている」という武闘派の怒り―――こうした、文治派と武闘派の仲違いはいつの時代にもあるものだが、特に彼らの諍いは激しかった。
のちに、「三成切るべし」と蜂起した彼らによって追い詰められた三成は、家康のところに駆け込んで一命をとりとめたこともあった。そんなこともあったが、それでも三成の眼中には、清正も家康もなかった。
三成の目は真っすぐ「秀吉だけ」を見ていた。彼が手掛けた事業の成功は、秀吉一人のために捧げられた。
三成の「豊臣家・命」という大義は、生涯ぶれることはなかった。三成の旗印「大一大万大吉」はデザイン的にも異色だし、その意とするところも諸説あって一定ではない。「一人は万民のために万民は一人のために」の「ラグビー精神」と解説する人もいるが、成立の真相は不明である。
その三成に代わって、少し彼の弁護をすれば、まず、ゴマすり、讒言野郎である。彼が秀吉からまず云い渡された役職は『奏者』というものだった。秀吉の耳には届かない日常的な出来事を秀吉に伝えることが役目の役職である。三成は極めてまじめにその職責を全うした。
「邪なことは嫌い」「正義こそ大義」が彼の美学だった。厳格な原則主義者の彼は、何の脚色も省略も無く、ありのままをストレートに報告した。そのために震え上がる人もいただろうとは思う。しかし、この役目を利用して、ありもしない会話をでっち上げて、秀吉に御注進に及ぶなどという下卑たことは断じてしなかった。讒言などは最も彼の美学に反する行為だったが、ただ、彼の「ものの言いよう」には問題があったかもしれない。
三成が才気煥発な男であったことは万人が認めるところだが、頭のいい、そしてその自分の頭の良さが知らず知らずに表に出てしまう秀才肌の自信家にありがちな、「官僚的な、上から目線の物言い」が、強力なアンチ三成を作ることになってしまったことは否めないが、、、、。
次に、「理屈先行の口先男」評については、秀吉との最初の出会いの折の、「三献の茶」とも「三椀の才」ともいわれる話をご紹介するにとどめる。これは、近江で鷹狩りの途中、喉が渇いた秀吉がそれを癒しに近くの観音寺を訪れた際、たまたまその寺に寺小姓として修行に来ていた近所に住む佐吉少年(三成)が、初対面の秀吉の喉の渇き具合を忖度して、一杯目はぬるい湯を大きな椀にたっぷり、2杯目はちょっと温かめの湯を普通量、3杯目はちんちんの熱い茶を小さい器で少量出したという。(武将感状記)。
「なんと、人の気持ちがわかる少年よ」と感心した秀吉によって、三成はその場で「家臣採用」が決まったという、あの話であるが、この、他人の「いまの立場」をきちんと忖度して、気配りをもって即座に実行動に移したという逸話は、彼が「理屈先行の口先男ではない」ことの証だろう。また、友達ゼロの冷血漢という批判については、三成のために獅子奮迅の働きをした島左近と大谷吉継の親友を挙げる。まず、「石田三成にすぎたるものは島の左近と佐和山の城」と謳われたほどの戦場の鬼・島左近は、三成の三顧の礼に感激して三成配下に入った猛将だが、関ヶ原の戦場で獅子奮迅、三成のために命を落とした。また、同じ関ヶ原で小早川秀秋の裏切りの直後、その累が拡大しないようにと、病身を顧みず小早川陣営に真っ先に突っ込み、死んでいったのは大谷吉継(真田幸村の義父)だった。
関ヶ原で石田三成部隊からは一人の裏切りも出なかった事実も申し添えれば、「孤高の冷血漢」のイメージは少しは払拭されるだろうか。
三成には、こんな話もある。「関ヶ原」の敗勢を見た三成は捲土重来を期して伊吹山中に逃げ、身を隠したが見つかってしまった。処刑当日、刑場に向かう途中に喉の渇きを訴えた三成に、護送の役人は通りすがりの農家の庭の柿を捥ぎって三成に渡した。
三成はその柿を受け取らず、「私がこれで腹を壊しでもしたらどうするっ」と一喝した。
皆さん、これは、処刑当日の話である。この話、往生際の悪い奴とみるか、最後の最後まで家康を狙い続ける三成のぶれない信念と見るか。