さて、今日の主人公・米沢上杉家第9代藩主上杉鷹山の話だが、この「鷹山」は彼の藩主隠居後の「名乗り」であり、藩主時代は「治憲」と言ったが、分かり易さを第一に、これ以降も彼の年齢に関係なく、小稿では「鷹山」と呼ぶ。この鷹山が養子に入った頃の上杉家は、経済危機の真っただ中にあった。尤も上杉家の経済危機は、関ヶ原以来ずうっと、だった。
かつての石高は、上杉景勝が豊臣政権の五大老の一人だったこともあって、120万石だったが、その関ヶ原で景勝は石田三成側の西軍に属したことから、家康政権下では4分の1に減らされ、更に、その後、藩主の後継手続きの不備を幕府側から指摘され、そのまた半分、つまり全盛時の8分の1の、15万になってしまった。(米沢の中心街に『吉亭』という米沢牛料理の有名店がある。もともとは江戸末期から昭和まで米沢織を営んできた旧家だが、いまは料亭になっている。20年ほど前、上杉鷹山に関する書物を多く著しておられる童門冬二氏とご一緒にその店を訪れた際、ま、予め童門さんが、「今度連れていくマツダイラさんは名前からして、徳川ゆかりの方」という紹介をなさっていたのだろう。私は家康の異父弟の傍流の末裔だから、全く関係が無い身同然なのだが、そこのお内儀が洒落た方で、玄関口で私どもを迎えて下さった時、こうおっしゃった。「まあまあようこそおいでくださいました。お待ち申し上げておりました。でも、私ども、今でもお憾み申しあげておりますのよ。」一瞬、間があって、私たちはすぐ大笑いしたのだが、かくのごとく、米沢の方々の徳川幕府の仕打ちへの憾みは半端ない。)
鷹山は明和4年(1767)に17歳で家督を継ぐ。世子(後継ぎ)時代に師事した細井平洲を生涯の師と仰ぎ、竹俣当綱や莅戸善政や佐藤文四郎と言った側近を活用して、藩政改革を本格化させる。
上杉鷹山像
米沢上杉家には初代景勝から大切にしてきた考え方があった。それは、どんな財政事情にあっても家臣のリストラはしない、というもの。これは「藩主は藩や人民を私物化してはならぬ」という、前述のあの鷹山イズム・「伝国の辞」の根幹を形成する「思想」でもあった。120万石時代の家臣6000人を、石高がどんなに減ってもなお必死に維持しようと、彼らは燃えた。
かつて、景勝も景勝の側近・直江兼続も、領民と一緒に「そのこと」に立ち向かった。断っておくが、「一人のリストラもしない」というのは「普通の藩の民(人民)を」という意味であって、どんな時代でもどんな社会でも存在する、立場を利用して、政を私物化しようとする奸臣は別である。鷹山は入国すると、6年のうちに、そういった佞臣を一掃した。そして、前述の竹俣当綱らに離散農民の帰村、新田開発の奨励、用水路の開削、漆・養蚕・織物などの地場産業の振興といった農村復興政策を徹底的に行わせた。(しかし、この竹俣も後日、慢心が祟って、まさかの失脚するのだが。。。)
鷹山自身も率先垂範、徹底的な倹約を進めた。石高が8分の1になったのだから、藩主の生活費も8分の1にした。奥女中の数も50人から9人に減らした。その徹底ぶりは領民を納得させ、結果として一定の成果を収めた。しかし、改革の途中でふと弱気になる事もあった。そんな時、彼は、その都度、恩師・細井平洲の教えを反芻した。またある時は、側近・佐藤文四郎の存在に勇気づけられたかもしれない。が、何よりも「藩主・鷹山」を支えたのは、「今、自分は何をなすべきか」の確固たるポリシーが彼自身にぶれずにあったことだったろう。
上杉家御廟所
天明5年(1785)、彼は隠居。義父・重定の四男・治広に家督を譲り、自分はその後見人として藩政をみることになる。その折に後継の治広に送った言葉が、先述の「伝国の辞」であった。「為せば成る為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」―――私も含めて、鷹山の残したこの言葉に共感し、自省する人は多いと思う。
彼は100%、藩の人民のために行動した。「改革」を推進するためには、藩の人民に常で公平であろうと思い続けた。しかし、そんな彼にも、一つ、例外がある。米沢城から車で10分ほどのところに上杉御廟所がある。毘と龍の文字が染め抜かれた旗の間を抜けると、中央奥に謙信の廟屋、左右に歴代の藩主の廟が整然と並んでいる。しかし、よく見ると、向かって左側に、一つだけ列から外れた少し小さい廟があるのに気付く。これは、鷹山の息子・顕孝の墓である。藩主になる寸前の19歳の時、彼は疱瘡のために亡くなった。息子の死に鷹山は慟哭する。そして、本来、藩主だけが埋葬される廟所に、鷹山は息子の霊屋を建てた。藩の民には常に公平に、を旨とした鷹山の、これはたった一度の我儘だった。この、他と比べて小ぶりの廟に、私は普通の父親の親心を見て、少し涙ぐんだ。