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【歴史編】「宮本武蔵:壮年期編/後編」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「宮本武蔵:壮年期編/後編」編

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さて。この初決闘から4年後、武蔵16、7の時、天下分け目の「関ヶ原」がある。この時、武蔵は父の関係から宇喜多秀家の手のもの、として参戦した説が有力である。宇喜多、ということは三成側で、非家康側である。武術に自信を持っていた武蔵にとってこの戦乱は願ってもないチャンスだった。

合戦で手柄を立てて、武将に取り立てられれば、やがては一国一城のあるじになる事も夢ではない―――父は一介の「十手の武芸者」という家に生まれた武蔵は、「一国一城の主に」という立身出世の夢を追い続けていた。

この関ヶ原で武功を挙げればその夢は一歩近づいたかもしれないが、勝ったのは家康側だった。結果、彼は落武者として追われることになる。吉川英治の小説などでは、この時期に「恋人・お通」や沢庵和尚に出会ったりするのだが、これらは、みな、フィクションである。

彼の自著「五輪書」によれば、実際は、関ヶ原の4年後には、「都へ出て、天下の兵法者と勝負」した、とある。武蔵は「合戦の手柄によって出世する望みが断たれた上は、全国一流の武芸者との決闘によって、名を挙げよう」と思った。この中で有名なのが武芸の名門「吉岡一門」との3度にわたる決闘である。まずは門主・清十郎。ついで、兄の仇、と立ち上がった弟の伝七郎。二人とも、武蔵の一撃に、斃れた。そして対吉岡一門3連戦の最後の相手は清十郎の子供、又七郎であった。名門・吉岡一門にとっては3度も続けて同じ相手に負けられない。だから、背水の陣を敷き、数十人とも数百人とも言われる一門の門弟を、又七郎の助っ人に配置した。場所は京都郊外、一乗寺下り松。

早めに現場に着いていた武蔵は木陰に身を潜めて、ただ一人、幼な子・又七郎を待つ。やがてその子が到着すると、他の門弟には目もくれず、ただただその幼子の命だけを狙って武蔵は全力で躍りかかり、そして、殺す。卑怯も糞もない。決闘は勝たねばならぬのだ、と武蔵は思う。武蔵はこのころから、自分の名前の上に「天下一」と署名するようになる。しかし、それなのに。武蔵は、なおも放浪の旅を続けねばならなかった。どの大名からも「仕官」の声がかからなかったからである。

関ヶ原に勝った家康は、その後、幕府を開き、世情は安定し、戦乱はなくなっていった。世間には職を求める武士、武芸者で溢れていた。武蔵の伝記「二天記」によれば、その頃、ひょっとして武蔵より強いのではないかと噂される人物が人々の口に上るようになる。佐々木小次郎である。この小次郎は小倉の大名・細川家の剣術指南役を務めていた。細川家は、「関ヶ原」での功績を家康から認められ、それまでの18万石から40万石に加増されていた。家中には新たに多勢の武士が召し抱えられ、その武士たちのための剣術指南役をおく余裕もできていた。だから武蔵は、小次郎を倒せば自分が小次郎に代って、その指南役になれると思った。

伝承によれば、小次郎は「巌流」という流派を起こし、燕返しと呼ばれる必殺の技を身につけていたという。前出の「小倉碑文」によれば、その長刀の長さは90センチ。それを自在に扱う小次郎は、並の腕力、体力ではない。武蔵はまさに、武者震いをしながら、小次郎との腕比べを細川家の家老に願い出た、と「二天記」には記されている。

やがて、「両者の対決は、藩主の許しを得た正式の仕合」という「許し」が細川家から出るのだが、「ただし、決闘の場所は無人島」という条件が付けられていた。それには関ヶ原以後の政治情勢が色濃く影を落としていた。家康が、たまたまこの両者対決の前年に、各地の大名に差し出させた誓紙には、「謀叛人や殺人者を召し抱えませぬ」という一節がある。謀叛人とは、かつて関ヶ原の合戦で、家康に敵対した西軍の武士たちを指す。

「宮本武蔵:壮年期編/後編」元NHKアナウンサー 松平定知

突然現れた武蔵に対して、細川家は当然、警戒心を抱く。細川家の城下で大々的に決戦挙行をぶち上げた時の、幕府側のリアクションを考える時、この「無人島決戦」は、細川家としては必要な「保険」だったかもしれない。ところで、武蔵は、そんな政治的思惑など全く分からない。決戦の場所がどこであろうが、要は自分が勝てばいいのだ、としか考えていない。武蔵はこの一戦に全てを賭けていた。小次郎もそうだった。直前に、小次郎からは「真剣を以て雌雄を決せん」という申し入れがあったが、これに武蔵は「自分は木刀で」と答えた(小倉碑文)という。

そして、さあ、いよいよ決戦当日。慶長17年(1612)4月13日の朝9時過ぎのこと、である。でも、、、予定の刻限に2時間近くも遅れて武蔵は小舟で到着したこと、大幅な遅刻に、小次郎が怒りの余り、鞘を投げ捨て武蔵に躙りよったこと、その刹那、武蔵は大音声で「小次郎破れたり」と叫んだこと、対決そのものは、小次郎の長刀よりさらに30センチも長い武蔵の樫の木の刀が小次郎の眉間を一撃し、小次郎はその場に倒れたこと、、、なんてことは皆さんよくご存じの事である。

ただ一つだけ、付け加えるなら、最強と言われた小次郎に勝っても、武蔵には、細川家から小次郎に代わる剣術指南を、という声がなかったことである。だから武蔵は、やむなく、また放浪の旅に出る。―――この時、武蔵の胸に去来したものは何だったか。何のために自分は勝ったのか。「勝つため」の、自分の半生は何だったのか、、、さあ、以後は次号。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。