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【歴史編】「北条早雲/後編」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「北条早雲/後編」編

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足利幕府という中央政権の最終段階から、各地の有力大名が鎬を削る、いわば地方の時代の「戦国」の幕開けに彼は登場しました。その意味で彼を戦国大名のはしり、という人もいます。そして、彼はこのあと、五代百年続く北条王国を築きあげますが、5代目の氏直が秀吉に負けたことにより、秀吉主導でまた、中央集権国家が復活するという展開になります。まさに、この北条王国の盛衰が日本の戦国時代とぴったりシンクロするのです。

さてさて。先ほど来の「早雲に梟雄の汚名を着せるな」問題に戻ります。

早雲は梟雄ではないと主張する理由のもう一つに、彼の、領国経営の素晴らしさ、があります。早雲の後は、氏綱、氏康、氏政、氏直です。その五人の肖像画を、機会があったら是非ご覧下さい。早雲以外の4人の『当主』は衣冠の正装ですが、早雲だけが法衣姿です。早雲だけが足袋をつけない裸足姿。彼は生涯、質素な生活に徹しました。自らの欲のために国盗りをしたのではないという証です。しかも彼は信義に篤く、情に厚い人物でした。韮山城主時代の戦いで、伊豆西海岸の松崎に着陣した時の話。その陣付近の村人たちの多くが、「はやり病」で倒れているのを見た早雲は、兵たちに直ちに武器を手放させ、病に苦しむ村人たちの看護を命じます。おかげで村人たちは回復し、それを見た早雲が「じゃあ始めるか」と、兵に武器を持たせたところ、早雲軍と戦おうとする村人は一人もいませんでした。「戦わずして勝つ」―――これも、「高等戦略」の一つかもしれませんが、結果として村人たちは「海賊が来たと思ったら神様が来た!」と全員早雲に恭順の意を表したといいます。

また彼は、領国で、減税政策を徹底しました。多くの場合六公四民、中には七公三民もあった中で、一律、四公六民を徹底、その他の雑税も一切徴収しないと宣言しました。もちろん太陽政策だけではなく、命令違反を犯したときには厳し過ぎるほどの厳罰で当たりましたが、そのメリハリが見事でした。「逆らうと怖いが、きちんとやれば、われわれを守ってくれる」―――領民の「北条」への忠誠心は高まり、これが、以後、五代百年続く北条王国につながっていきます。「全部計算よ」と唾棄する人もいるかもしれませんが、それも含めて、卓越した、行政手腕と言わざるを得ません。

「北条早雲/後編」元NHKアナウンサー 松平定知

それと、彼を梟雄と呼ばせない、3つ目の主張。それは、今川家への態度です。先ほども少し言いかけましたが、当時の早雲の力と勢いからすれば、その全盛時、主家筋の今川家を乗っ取ることはひょっとして可能だったかもしれません。しかし、妹の嫁ぎ先・今川家を、早雲は主家筋と思い定めます。ですから、彼は生涯、今川家には一本の矢も放ってはいません。彼は謀反どころか、妹の生んだ息子・龍王丸の養育係に徹しました。早雲の心のありようを示すいい話です。早雲が、自分だけの栄誉、栄達を求めてその後の人生を生きたものではないことの、何よりの証拠と言えます。私が、早雲を、「梟雄」呼ばわりするな、と主張する最大の理由です。

そうそう。話が「あとさき」になりました。先ほど来、私は「北条早雲」「早雲」と言ってますが、彼は生前、自分のことをそう名乗ったり、そう呼ばれたりしたことは一度もありません。つまり、「北条」などという苗字は後世につけられたもので、2代目を継いだ息子・氏綱が、関東の外からきた自分たちを「他国者」と決めつける扇谷上杉氏を中心とする敵対勢力に対して、姓を「北条」に変えることで、自分たちを、かの、鎌倉・北条氏の系譜に位置付け、関東支配の正当性を主張しようとしたのです。「北条」姓はこの時「制作」されたもので、北条王国の創始者早雲には、何のかかわりもないことでした。また、「早雲」ですが、これも、菩提寺の名前を、氏綱が便宜的につけたもの。箱根湯本を流れる早川の南岸に早雲寺公園がありますが、その公園の小さな丘を背に早雲寺の伽藍が並んでいます。

早雲の生き方を理解する上で重要なのが、「早雲寺殿21か条」という、早雲が書いた家訓です。そこには、神を敬いなさい、早寝早起きをしなさい、火の用心をしなさいなどが書かれてあります。これは、後世、各家が競って子孫に残すようになった「家訓」の基になりますが、その第14条が、彼の心象を表す名言です。「上下万民に対し、一言半句にても虚言を申すべからず」―――さあ、どうです?これが、「梟雄の言」でしょうか、みなさん!

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。