真面目な働き者・忠敬は、彼の第2の人生、養子先の伊能家でも一生懸命働き、彼のおかげで、傾きかけていた家業の造り酒屋を持ち直させたのみならず、忠敬の下で伊能家は積極経営に乗り出す。造り酒屋業だけでなく、薪炭やコメの商い、さらには両替にまでウイングを広げ、そのことごとくを成功させた。結果、婿養子になって32年後の、彼、50歳の時には、伊能家の資産は3万両にまで膨れ上がっていた。この「3万両」は、今の価値で言うと(『両』の換算には諸説あるが、この際、それなりの整合性と計算しやすさを持った数字として、一両10万円説に依ると)、なんと30億円!この第2の人生も大成功であった。
そして、50歳になったある日、彼は妻と息子・景敬を呼んでこう切り出した。―――「18歳でこの伊能家の敷居をまたいで32年、お父さんは、それなりに一生懸命働いてきた。すまぬが、あとはお父さんを解放してはくれまいか。お父さんは、ね、明日から江戸に出て、子供のころからの夢だった「星に関する勉強」をしたいのだ、よ。」―――これだけの身上を残してくれた忠敬に家族の誰も異は唱えない。かくして忠敬は、「人生50年」と言われたあの時代、その50から、新しい人生に踏み込んでいく。彼の第3の人生は、子供のころ、お父さんの手伝いで九十九里の海上を行き交っていた時、往復の船上で、空を見上げながら星のことを思っていたあの夢、星のこと、天文のことを、じっくり研究したいという夢の実現。そう、江戸での単身、天文研究生活であった。
「天文方暦局」と呼ばれる幕府の研究機関は浅草にあった。そこにほど近い深川に忠敬は居を定めた。忠敬の指導教官は高橋至時。32歳と、忠敬の息子のような年恰好だったが、温厚で聡明な先生だった。忠敬にしてみれば、長年の夢が叶い、好きな天文の勉強を思う存分できる―――まさに幸せの絶頂だっただろう。そんな生活が5、6年ほど続いたある日、忠敬はまるで少年の様に目をキラキラ輝かせて、喜色満面、18歳も年下の至時先生の前に正座し、弾む声でこう言った。「先生。地球の大きさが分かりましたっ!」忠敬の説明では、北極星は、ほぼ真北にあってほとんど動かない。そのため地球の上では見る場所によって見上げる角度が違う。その角度の差を比べれば地球上の緯度の差が分かる。南北を通る同じ経線上の2地点の距離と緯度の差が分かれば、地球は球体なので、外周が割り出せる。忠敬の住まいの深川と職場の浅草間の緯度の差は職場にある機械を利用して図るとおよそ0点1度。この角度を深川・浅草間の距離およそ2キロに当てはめれば、地球の外周が分かり、地球の凡その大きさが分かる、というのである。これを聞き終えた至時先生は、思わず笑ってしまった。深川・浅草間くらいの短い距離をもとに計算すると、誤差が大きすぎて、正しい数値は得られない、というのである。がっくりと肩を落とす55歳の年長弟子を気の毒に思った優しい至時先生は、忠敬のそれまでの努力を労う意味で、気休めくらいにはなろうかと、「深川・浅草間ではなく、江戸・蝦夷間くらいなら、より近い数値が得られるかもしれません」とリップサービスをした。それに食らいついたのが忠敬だった。がっくり落としていた肩を上げ、顔をシャキッと先生の方に向け、目をらんらんと輝かせてこう言った。「先生ッ、私、それ、やってみます!」
かくして、彼の第4の人生は始まった。1800年、閏4月19日、忠敬、日本橋を出発。数え56歳の時であった。蝦夷地に行く許可を幕府から得るために、至時先生は地図を作る名目を考えた。このころ、蝦夷地の周辺には外国の艦隊が出没していたが当時の日本には国防に欠かせない正確な地図がなかった。至時はそこに目をつけ、地図つくりのための測量という目的で幕府に申請し、許可を得たのである。許可を得たといっても、幕府から出る金は微々たるものだったし、当時は「天領」という立ち入り禁止地域がいっぱいあった。その地域をその都度「はい、そうですか」と避けて通っていたら、正確な測量などできはしない。忠敬は、相当程度の鼻薬を、その地域の幕府役人にその都度、ポケットマネーで嗅がせていたのではなかろうか。また、例えば、リアス式海岸の入り組んだところの正確な調査のために、チャーター船の手配や人足の確保などの出費は当然あったと思うべきで、それも、彼の懐から出たと、私は思っている。「出どころ」は、あの、第2の人生で稼ぎ出した30億円(ではなかったか)。蝦夷地の探検・測量が一段落して、忠敬はいったん江戸に戻るが(彼の生涯の測量の旅は都合10回を数えた)、その時、その成果を家斉将軍に見せると、家斉は「見事である。西日本も、な。」ということになり、その後の西日本測量は、幕府・家斉のお墨付きとなった。それ故、金銭的にはそれ以後は「持ち出し」はなかった、と思う。
忠敬が全国踏破して江戸に戻ってきたのは1816年10月。その1年半後1818年4月に彼は死ぬ。「大日本沿海輿地全図」の完成は1821年の7月。弟子たちは3年3か月も、彼の死を隠して、必死になって、残っていた計算などをした。そして、あくまでも「忠敬の作品」として世に出した。この地図は、こんにち、宇宙衛星・インテルサットを使って日本を見た専門家の誰もが舌を巻くほど、というか、誰もが腰を抜かすほど誤差が少ない「地図」であった。これは、江戸時代を代表する、世界に冠たる「学問遺産」「文化遺産」である。