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【歴史編】「今川義元/後編」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「今川義元/後編」編

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その義元が4歳の時、父・氏親は当時27歳だった太原雪斎を呼び出し、義元の養育係に命じます。雪斎はもともとは僧侶でしたが、このまま仏門に居て、座禅と内省の繰り返しによる自己完成への日々を送るより、俗世にくだって、世間で苦しんでいる衆生を救済することこそ我が道、と思い定め、僧門を出て娑婆に戻ります。娑婆に出て、縁あって今川家に籍を置くようになり、既述の経緯で、やがて義元の師であり、かけがえのない、名官房長官になるのです。この、「智謀、神の如し」と敬われた太原雪斎との二人三脚で今川義元は戦国の世を雄々しく生きていきますが、あの「桶狭間の時」には、この名官房長官は鬼籍に入ってしまっていました。歴史にもしもは無意味、と誰もが言いますが、でも、もしもあの時にあの太原雪斎がいたら、日本の戦国史は別の貌を見せていたことは明らかです。――桶狭間、太原雪斎――忘れられない名前です。

さて。今川家は一門の結束が必ずしも盤石ではなく、義忠戦死の時も、その子・氏親継承の時も、義忠の孫・義元後継の時も、いずれもすんなりとは移行せずに、必ずと言っていい程、内紛・反逆劇が繰り広げられました。ですから、義元の父・氏親は自分の死の直前、領国支配の法律(分国法)である「仮名目録」を作りました。いわゆる「今川仮名目録33ヶ条」です。争いを武力闘争以前に、あらかじめ取り決めた法律によって解決させようという趣旨で、その子・義元も、「桶狭間」の7年前に「仮名目録追加21ヶ条」を制定しています。

それでも、世は何せ群雄割拠の戦国時代、当然、諍いは後を絶ちません。義元は、雪斎とタッグを組んで、例えば、花倉の乱といわれる家督継承戦や、武田信虎幽閉事件や対織田信秀戦などをことごとく切り抜けていきました。でも、義元と雪斎の二人の基本戦略は、近隣の、武田・北条の融和路線、閨閥作戦でした。例えば、武田信玄の姉を義元の正室にし、義元の姉(妹説も)を北条氏綱の嫡男・氏康の正室にしたり、義元の娘を信玄の長男・義信の妻にしたり、信玄の娘を北条氏康の子の氏政の妻に、北条氏康の娘を義元の子・氏真の妻にしたりしました。これで、駿河以東は武田と北条の睨みが効くだろうと、義元と雪斎は次の作戦を西への進出に切り替えるのです。西には織田の尾張があり、その先には京都があります。そして、そこまで行くと、次は「天下」です。

「今川義元/後編」元NHKアナウンサー 松平定知

今川義元像(桶狭間古戦場公園)

天下(人)と今川、とくれば、ここで家康との関係に触れないわけにはいきません。そもそも、天文16年(1547)、尾張の織田信秀が岡崎城の松平広忠を攻撃。広忠は当時まだ6歳だった嫡男・家康(竹千代)を義元の許に人質として送り、援軍を求めました。ところが家康を今川に引き渡す旅の途中で、家康は松平の家臣の裏切りで、今川の敵方の織田方に攫われてしまいます。激怒した義元は翌年、織田勢を三河から放擲すべく決戦を決意。この戦の今川方の大将は、あの、太原雪斎でした。

戦は今川方の快勝で終わりましたが、その翌年、松平広忠(家康の父)は家臣(岩松某)に刺殺されてしまいます。義元と雪斎は直ちに岡崎城を接収。松平家の重臣と家族を駿河へ移します。その上で、当時織田方になっていた安祥城を一気呵成に攻め、城将の織田信広(信長の異母兄)を降参させて、信広と家康(竹千代)の人質交換を実現させるのです。

従って家康の今川人質時代は8歳から19歳まで、ということになります。でも「人質」と言っても、食事も生活も学問も、家康は当主の義元には結構気を使ってもらったようです。何よりも、義元の姪(築山殿)を、人質(家康)の妻に、というのは異例の厚遇でした。(尤も、築山殿は本当に義元の姪だったのか、ということについては諸説あるようですが、、、)

桶狭間で義元が殺された時、岡崎城に帰ってきた家康は、三河・松平家の菩提寺(大樹寺)に人質解放報告をした後、義元の後を追おうとしました。この「追腹」は、大樹寺の登誉住職の必死の説得にあってとりやめになりましたが、この他にも、将軍職を秀忠に譲ったあとの隠居生活の地に家康が「駿府」を選んだのも、家康の人質としての扱われ方、人質時代の、義元・家康の距離感を表す出来事だったと思います。

領民にも人質にも気を配り、名宰相の名を残した今川義元。嗚呼、あの桶狭間なかりせば、と思うのは私だけでしょうか。義元惨死のあと今川家は、東は武田、西は徳川に併合され、戦国の大名としては消滅します。でも、今川宗家の血筋は明治まで続いたとのことです。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。