さて、道三。美濃は獲(盗)ったものの、あの戦国の世、居並ぶ一騎当千の戦国大名と伍して一国を維持していくのは、マムシの道三でも至難の業だった。以下が、先述の「詳細は後述」の部分である。例えば、隣には、このところ湿地帯の水上貿易で資産を増やしてきた織田信秀がいた。その信秀にしても東からは今川義元が牙をむいている――こういう状況の中で、道三と信秀はお互いの将来を思って『講和』する。
その証として、道三の娘を信秀の嫡男・信長に嫁がせることにした。道三と信長は舅・婿の間柄になったのだが、奇妙なことに二人はそれまで一度も直接会ったことはない。結婚から4年後、信長の父・信秀が急死。信長は織田家を継いだ。すると道三から信長に直接会わないかという申し入れがあった。
「あんな胡散臭い奴の誘いに乗れるか」というのが、信長側の家臣たちの総意だったが、信長は『道三の実力をこの目で見極めたい』と、二つ返事でOKする。
そして天文22 年(1553)の4月の下旬、彼らは美濃と尾張の県境に近い聖徳寺でお互いを初めて見る。その正式な会見の日、約束の時間前に、道三は街道沿いの粗末な小屋に入って、密に信長を待ちうけていた。汚い着物をだらしなくはおり、ざんバラ髪で、馬の首に尻を向けて座るという驚天動地の格好で「うつけの信長」は道三の目の前を通り過ぎていく。「噂通りのただの馬鹿か」と道三は深いため息をついた。しかし、彼に続く兵隊たちの姿を見て仰天する。兵たちはみな、道三が考えたものと同じ長い槍を持っていた、その数500本。そしてその後ろに鉄砲隊が続く。その数、これまた500挺。信長は道三が考えた新兵器をより大規模に装備して行進していたのだ。
そして、正式な会見場。道三は会見場に入って、また、目を見張った。そこには正装し、髪をつややかに結いあげた凛々しい若者がいた。ただ、その若者は、柱にもたれて、だらしなく足を投げ出したままの恰好。道三の部下がつかみかからんばかりの形相で「斉藤山城殿に御座候」というと、若者は「であるか」とひとこと言って立ち上がり、対面の座に着くや態度を一変、威儀を正した見事な挨拶をしたという。
道三は、この若者に、底知れぬ才気を感じ取った。別れの時、「また会おう」と声をかけた道三は、この初対面の後、「行く末、私の息子たちは、この『うつけ』の家に自分の馬を繋ぐことになる」――つまり、「斉藤家は信長に獲られるだろう」と言った。
その「息子たち」の代表、嫡男義龍。彼は彼なりに頑張った、と思う。しかし、あの道三が、信長を知ってしまった後では、気の毒だった。義龍は道三から後継者としての器量不足と言われ続けた。加之、道三が「われらが美濃」を女婿の信長に譲ろうとしていることも知る。
ここで、道三・義龍の、父子の殺し合いが始まる。そしてその「親子の戦」は息子が勝つ。父・道三は1556年4月、長良川の河原で戦死。以後、義龍は本格的に信長排除に動くが、その途中で35歳の若さで病死。そのあとを継いだ龍興が、信長の軍門に下り、道三の予言通り、斉藤家は滅びてしまった――と、「歴史」はこの通りなのだが、私はあの長良川河原での道三の戦死は道三の自殺だったと思うのだ。
この付近で死んだ、と言われる場所に、道三の公塚がある。私はその前で手を合わせて、通りを隔ててすぐの、長良河原に出たことがある。そこは何にもない、普通の、平坦な石ころ河原。「長良川」での両軍の兵力は道三2,700、義龍1万7千。兵力が少ない側が戦う時は平地は100%不利。隠れたり、目晦まし的なことが全くできないからである。そんな「常識」を、あの百戦錬磨の道三が知らないはずがない。あれは、そんなことを百も承知の道三が、嫡男の義龍に見せた「最後の親心」だったと私は思う。
「許せ、義龍。君を鍛えるがためのこれまでの対応だった。義龍よ、俺の屍を超えていけ、そして、より大きくなって、、、そう、斉藤家を頼んだぞ」という、まさに命を張った道三の「おしえ」だったのだと思いたい。目的達成のためには親族といえども容赦なく殺しまくった道三だったからこそ、最後に示した(と思われる)この不器用な愛情表現に、私は勝手に、少し、涙ぐむのである。