これは以前、私の番組「その時歴史が動いた」にご出演下さった東北大学の平川新教授との控室での雑談の時に伺ったものです。
―――唐の時代、突厥という地方都市に李克用という天下を狙う武将がいた。彼は黒装束で固めた軍団を持ち、それが滅法強かった。李克用は片方の目が極端に小さかったのでその上に眼帯を巻き、独眼竜と呼ばせていた。このことを知った政宗はこの李克用に自分を重ね合わせる。豪勇・李は、突厥という中央から遠く離れた「地方」にいて天下を窺った男、「眼に拘り」も共通点・・・政宗は独眼竜という名前ばかりか、眼帯の色も、いやいや眼帯だけでなく政宗軍団のチームカラーも黒にした、というのです。
政宗がこうした中国の故事に精通していたのは、政宗のブレーンの一人だった臨済宗の名僧・虎哉宗乙による幼少時からの教育にありました。禅宗を通じて入ってきたこうした中国情報はそっくりそのまま彼の「教養」となり、身についていきました。平川教授が控室でおっしゃったのはそれだけですが、私は、そのお話から勝手に「政宗の天下制覇の野望」を嗅ぎ取りました。
戦国武将は戦に勝って徐々に自分の勢力を広げていくのがその生き方です。彼も近辺の敵を一蹴していくうち大いに自信をつけていきます。書の得意な政宗は生涯、一千通近くの自筆の手紙を書いていますが、近隣の豪族・大内定綱を破った後、知人に出した手紙の中には「関東中も手やすく候」という文面があります。東北からやがて関東へ、という意味ですが、彼の眼には、今を時めく秀吉も「かなわぬ敵」とは映っていなかったのではないか。「私が年下で、遠隔地にいるからと、軽いお気持ちで命令をお出しになっても、私は他の人たちとは違って、素直には従いませんぜ」といった意思表示をしていました。(対北条戦参戦遅延事件や一揆扇動事件はその好例です。ちょっとやりすぎと思ったら、白装束や黄金の磔台を登場させて危機を脱出する経緯については、前出の「片倉小十郎」の稿をご参照下さい)。
こうしたことに加えて、今回の、この、突厥の李克用の話です。政宗は、多くの人々から「遅れてきた天下人」と言われています。確かに彼の生年は、信長より33年、秀吉は生年不詳ですが、ま、30年くらい、家康にも24年遅いですから、そう呼ばれても仕方がありませんが、政宗本人は決して自分を「遅れてきた」とは思っていなかった、その最大の証拠は後編で触れますが、この李克用の黒眼帯噺はそれを補強する傍証と私は思っています。 さて、仙台ではなく山形・米沢で生を享けた政宗。父は伊達家16代当主輝宗。政宗はその嫡男でした。母は政宗の生国・山形県の藩主であり、最上家11代当主の、最上義光の妹・義姫。この両親からは一歳違いで小次郎という弟が生まれていますが、この家族関係が壮絶なのです。
まず、父輝宗。政宗が父輝宗に代わって、伊達家当主になるのは1584年(天正12)、18歳の時。でも当時、伊達家は米沢を中心とした十数万石の中堅大名に過ぎず、周囲には相馬、最上、蘆名氏がいて、この四氏間で、和睦や婚姻などを通して微妙なバランスを保っていました。この危ういバランスの中での共存共栄関係を打破し、奥州征討に動き出したのが政宗で、彼が家督を継承して間もなく、二本松城主の畠山義継との闘いがありました。1585年(天正13)のこと。この戦いも政宗が優勢で、義継が投降します。
義継は和議を申し入れるため、政宗の父・輝宗の隠居所を訪ねますが、なんと義継は輝宗をその場で人質に取り、輝宗を羽交い絞めにして盾としました。それを聞いて駆け付けた政宗は、その光景に一瞬怯みますが、輝宗の「構わぬ、義継を撃て、父もろともに、撃てぇ!」と叫びます。政宗は義継に向って銃の引き金を引きます。義継の前には父・輝宗がいます。(「伊達家治家記録」)。義継は銃殺。でも、実父・輝宗も、その時、死にます。
そしてその5年後、今度は実母。これはあくまでも、巷説の一つなのですが、政宗の生みの母・義姫が、政宗の食事の中に毒を盛ったという話です。実母は、普段から、政宗より、明るくて愛くるしい弟・小次郎の方を可愛がっていました。夫・輝宗亡きいま、伊達家の跡継ぎには次男、と思っていたのです。そんな中、1590年(天正18)の或る日、政宗の陣立を祝うために母・義姫は会津黒川城に出向き、そこに政宗を呼び、夕食を供します。母が用意したのですから、全く無防備に政宗は御膳に箸をつけましたが、口に含んでしばらくすると、たちまち腹痛を起こしたということが、伊達家の正史である「貞山公治家記録」に書かれています。この、実母による嫡男・政宗毒殺事件は、未遂に終わりますが、このあとすぐ政宗は、弟・小次郎を殺します。しかし、さすがに実母を自分の手で殺すことはしませんでした。それにしても、尋常ならざる、実父、実母、実弟の結末です。
政宗にはいろんな顔があります。ある時は戦における、非情ともいえるような徹底的粉砕志向の政宗。またある時は学問好きの読書家、文化人、教養人としての政宗。同時に希代のパフォーマー。語源は必ずしもそうだと断定はできないものの、洒落た男をダテ者と呼ぶ、ダンディズム・・・彼のこうした「重層構造」は、こうした彼の生い立ち、家族、血縁事情と無縁ではありますまい。
そしてそんな彼は天下を狙っていました。それも、当時、誰も考えもしなかった方法で!詳細は次号。