この、サン・ファン・バウティスタ号が出航した1613年9月、家康は古希を迎えています。人生50年と言われていた時代の70歳です。周囲が、「そろそろ」と思う頃。まして二代将軍秀忠は、当時、まだいま一つ求心力がありませんでした。46歳半ばの壮年・政宗が、当時、世界をリードしていたスペインやローマの指導者に会う機会を、無為に過ごすはずがありません。前編でも言いましたが手紙好きの政宗は、勿論、国王と教皇宛に親書を書きます。肩書は二つとも、「奥州王」です。当時政宗は、家康の6男忠輝の正室に、自分の長女、五六八姫を嫁がせ、また自分の嫡男忠宗の室に家康の孫(秀忠の娘)の振姫を貰っていました。秀吉がかつて厳命した「(自分より大きな勢力になると困るから)大名同士の結婚を禁ず」という掟に、家康も政宗も、堂々と違反しています。
そしてこの時の使節団の正使ソテロは、徳川の次は必ず伊達になると事前にスペイン国王に報告もしています。この、支倉のミッションは、表向きは宣教師の派遣と通商問題でした。しかし、本当のところは、当時世界最強と言われたスペインと軍事同盟を結ぶために動き、国王の受諾を受け、教皇の後ろ盾を受けることではなかったか、と私は思います。でも、現実は厳しいものでした。サン・ルカ港からマドリードを経由してローマに到着したものの、ローマの反応は『貴国のキリシタン弾圧は酷いと聞いている』というものでした。結局、支倉常長はスペインとの軍事同盟も、教皇の支援も得られぬまま帰国を余儀なくされます。帰途、船の問題で、マニラで2年も足止めされ、帰国は1620年(元和6)8月26日。つまり、政宗が、帰藩した支倉から『全くのゼロ回答』の正式報告を受けるまで、実に、7年の歳月が経っていたのです。
この報告を受けた政宗。「7年は長かったが、まあその期間は『夢』を見続けられたわい。これで、ある意味、踏ん切りもついた。さあ、別の道を!」という心境に近いものだったのではなかったでしょうか。政宗の非凡なところは、「不首尾に終わった時」の準備を、夢とは別に同時進行させていたことでした。夢破れて、急に舵を切ったわけではありません。その「準備」は、一つには、自分の土地を経済的に豊かな場所にすること。もう一つは、京の都から遠く離れたこの地に、当時最先端の桃山文化を花開かせること。この二つでした。
後者についてから先に言います。「この地に文化都市を築くこと」。
これは幸い、ここには良き先例がありました。政宗を遡ること500年前、仏教文化を中心に平泉で絢爛たる黄金文化を築き上げた藤原三代の業績です。前号で少し触れましたように、政宗は幼少時から、虎哉宗乙という高僧から、文化人・教養人としての様々な教えに触れていました。もともと、政宗は、向学心の強い、頭脳明晰な男でした。高い知識と洗練された美的センスにあふれている政宗は、まるで、乾いた砂が水を吸い込むように、美術と言わず、絵画と言わず、和歌、書、茶道、能、料理に至るまで、宗乙に代表される達人たちの訓えの一つ一つを十全に、体内に沁みこませていきます。金泥の花鳥風月や、古代中国の故事を主題にした濃絵などの作品が並ぶ政宗の菩提寺・瑞巌寺に入ると、私のような無教養人でもえもいわれぬ迫力を感じます。
次は経済の話です。
政宗が初めて入った頃の仙台の地は耕作不能の荒地が広がり、なかでも藩の北の、北上川の流域は毎年、水害に悩まされる湿地帯でした。この川の流路を変えて新田を開発しようという挑戦は1605年(慶長10)から始まっています。つまり、支倉出発の8年前から、です。政宗の肚は、支倉は支倉、新田開発は新田開発、つまり天下は天下、内政は内政ときっちり整理がついていました。北上川は、その流路変更工事のため、川幅が狭くなったりして一時的に水量が増え、結果として以前より氾濫頻発の事態になったこともありましたが、この問題には、川村孫兵衛重吉という土木技術担当で優れた業績を上げていた毛利家に属する武将を政宗は抜擢し、見事に解決に導きます。こうした新田開発大事業で新しく出来た水田は、豊かな実りを齎しました。政宗はこのコメを江戸に送りこみます。
そして1620年(元和6)3月、仙台藩のコメが500石、江戸に向けて出荷されますが、やがて江戸で消費されるコメの多くは仙台米、ということになり、仙台藩は実質100万石以上の石高を持つ富裕藩になります。支倉常長の「ゼロ回答」に接した政宗が、「7年夢を見させて貰った」と、あっさり「次のステップ」を踏めたのは、この新田開発事業の成功があったからだと思います。「外国勢力の力を借りて」と言う奇想天外な手法で天下獲りを狙った政宗は、その夢は果たせなかったものの、トータルとしてその人生は、東北、経済、文化教養、、、、、、普通の人の何倍もの、中身てんこ盛りの、豊かさいっぱいの『類まれ』なものでした。政宗がそのまれにみる波乱に満ちた生涯を閉じたのは、まさに、「古希(古来まれ)」の歳、70でした。
旗は紺地に金色の日の丸、漆黒の具足、馬鎧は虎や豹の毛皮に孔雀の羽根が飾られ、陣笠は1メートルを超える金色のとんがり帽子、陣羽織も金̶̶̶これは朝鮮出兵のために京都入りした時の伊達軍団の「いでたち」です。この金ぴか軍団を率いる政宗は、大きく輝く三日月の前立ての兜をかぶり、右目には黒の眼帯が!
派手でかっこいい彼らは「伊達者」と呼ばれました。その語源は必ずしもはっきりしないようですが、しかし確かに政宗は、「あの時代」を、間違いなく堂々と闊歩していたのです。