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【歴史編】「榎本武揚/後編」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「榎本武揚/後編」編

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そして2か月後の明治元年10月(9月8日・明治改元)榎本は蝦夷地に現れました。その中には新撰組副長・土方歳三の姿もありました。榎本は蝦夷地を開拓し、鉱物資源を採掘し、それをもとに国際港箱館を拠点に海外と交易をおこない、オランダのような「小なりとはいえ立派な国家」の建設、つまり、「もう一つの日本政府」を打ち立てようと試みたのです。そして、土方らが率いる榎本軍の陸軍部隊は箱館の防衛に当たっていた新政府軍を破り、五陵郭に入城、箱館を占領しました。しかし、ここでもまた、あのパークスが登場します。パークスは、榎本が蝦夷地上陸に当たって各国に出した声明文の中に「自分たちは徳川脱藩家臣」と名乗っていたことに注目しました。「英国はこれまで『徳川家は交戦団体』として認めてきた。でも、徳川の『脱藩家臣』では、あなた方は徳川家ではない。従って、今後はあなた方を交戦団体とは認めない」と通告してきたのです。

法律は一般に「口頭」より「文書」に重き(信用性)を置きます。榎本はオランダ留学の時の授業を思い出しこう発言します。「内容を文書にして頂きたい。我々も、文書で回答するから」̶̶̶このような経緯で送られてきたイギリスからの文書にはこうありました。「徳川脱藩家臣は事実上の政権である。しかし、交戦団体としての資格は認められない」̶̶̶そこで榎本は、肌身離さず持ち歩いていた拙稿冒頭にご紹介した『万国海律全書』を改めて読み直しました。そしてついに、そこに、「事実上の政権」は統治のためにいくつかの権利を主張できるという文言を見つけました。榎本は、その「いくつかの権利」の中の「臨検」に注目します。臨検は交戦団体に認められる権利です。そして「事実上の政権」はそれを主張できるだけですが、でも、その臨検の権利を事実上の政権が主張し、それが認められれば、国際法上、この「事実上の政権」は、「交戦団体」として認められることになる!そこで榎本は勝負に出ます。3つの条件を付けたのです。(1)箱館港での臨検(2)沖合3キロの公海における臨検(3)外国に向けて開かれていない港での臨検。̶̶̶この3つのうちの一つを満たせば、箱館政府はイギリスの船を臨検する権利を持つ、と。(1)と(2)はダミーでした。始めから認められるわけはないと思っていました。榎本が一縷の望みをかけたのは(3)の条項でした。

イギリス代表の返事は、予想通り、「(1)と(2)は認めない。ただし(3)は認める」でした。(3)の、「開かれていない港の臨検」までイギリスが拒否すれば、世界の人々はイギリスはそこで密貿易をやっているからだと疑うだろう。だから(3)はきっと認める筈だ。榎本の「読み」は的中しました。そして、国際法では、たとえ一つでも臨検の権利が認められれば、箱館政権は交戦団体として認められることを意味します。榎本の見事な勝利、でした。

でもいいことばかりは続きません。その翌月、明治元年11月。江差湾で停泊していた最新鋭の軍艦開陽丸が悪天候のあおりを食って沈没してしまいました。これを機に、「海軍力を失った箱館政権は蝦夷地の秩序を守る力はない」と、交戦団体としての資格がはく奪されました。その結果初めて、明治政府が日本を代表する唯一の政府、と位置づけられたのです。以後、榎本箱館軍と新政府軍との闘いは榎本軍の劣勢が続きます。明治2年5月11日には土方歳三が壮絶な戦死。そして5月17日、榎本は自らが捕虜となる代わりに部下の命を救うという条件で降伏。箱館戦争(五稜郭の戦)は終わりました。捕虜、といったって明治新政府に対する反逆者ですから、政権側はもちろん死刑を叫びます。榎本も当然そこは百も承知。死刑覚悟のその上で、榎本は拙稿冒頭の書を手に取りました。降伏4日前の5月13日のことでした。榎本は、その『万国海律全書』を万感の思いで机の上に置くと、やがて静かに筆を執りました̶̶̶「この『万国海律全書』は皇国無二の書である。もし戦火によって無に帰すことになれば、日本の将来にとって痛惜の極みである」̶̶̶この書と本を持たせて榎本は使いを遣わしました。訪ね先は「自分を攻めたてた新政府軍の蝦夷担当の最高司令官・新政府軍参謀の黒田清隆(第2代総理大臣)でした。黒田参謀はこの榎本の行動に心動かされ、その後、自ら頭を丸めて、全力で榎本の助命を嘆願して歩きます。明治7年には明治政府参議の大久保利通が榎本に政府への出仕を求めています。熟慮の結果、その願いを『諒』とした榎本は、のちに、逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣などを歴任、近代日本外交の礎を築いていくことになるのです。

でも、こうした明治政府での実績に様々な批判があったことも事実です。とくに有名なのが、明治24年に福沢諭吉が語ったという「榎本に武士の情けありやなしや。箱館戦争で亡くなった同志を思えば、ただその身を社会の暗所に隠して、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」というのが有名です。諭吉は勝海舟にも「幕臣の身でありながら、、、」という批判もしています。榎本も勝も、そのことについては終生沈黙を守りました。しかし、この福沢諭吉のクレームの16年も前の明治8年、榎本武揚は箱館山の麓に、箱館政府軍の戦没者を弔う『碧血碑」という慰霊碑を建てていることはぜひ申し添えねば、と思います。因みに「碧血」という言葉は、忠義のために死んだ武人の血は3年たつと碧玉になるという中国の故事にちなんだもの、だそうです。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。