この知恵伊豆(松平信綱)は、40代前半で島原の乱の収束に幕府代表として抜擢され、現地に派遣されたのですから、幕閣におけるその「信用」は絶大なものでした。島原の乱はご承知のように、日本史上最大の一揆でした。単なる一揆ではなく、宗教戦争でもありました。一揆側は天草四郎なる謎の16歳の少年を中心に原城に立てこもり、幕府相手に90日も籠城、力の限り抵抗した一大『反幕戦争』でありました。一揆勢の総数は諸説ありますが、最大で3万7千。対する幕府軍は12万超。幕府側の現地責任者は初めは板倉重昌でした。彼は、大坂の陣のきっかけとなった、あの、「方広寺鐘銘事件(君臣豊楽・国家安康。大坂の陣のきっかけになった)」で、その問題個所を指摘した人物。家康に幼少時から仕えた重鎮で家康の信頼は抜群でした。
しかし、この時の板倉はさしたる成果を挙げていません。その不甲斐なさに幕府は、当時売り出し中の松平信綱を、板倉の代わりの鎮圧担当候補としてノミネートします。それを聞いた板倉は急遽、総攻撃を敢行しますが、その戦いの中で彼は戦死してしまいます。死んだ板倉に代わって上使になった信綱は、戦闘行動の前に、例えば一揆側の戦死者の腹を切り、胃の中に海藻以外何もないことを確認すると、彼らの拠点である原城に対して徹底的な兵糧作戦を敢行します。また、キリスト教を信奉している天草四郎らの反幕勢力は、徳川の圧政から自分たちを救ってくれるのは外国勢力だと思い、彼らに熱い思いを寄せていました。そのことを知った信綱は、彼ら「一揆軍」の戦意を阻喪させるため、外国と、この場合はオランダと、独自のルートで話をつけ、結局、オランダ船、デ・ライプ号に、原城で籠城を続ける天草四郎たちに向けて「脅しの砲撃」をしてもらうことを依頼します。伊豆守の依頼を受けたオランダ船は、約束どおり、原城めがけて砲撃を開始します。天草四郎たちにしてみれば青天の霹靂。「一途に信頼していた外国船」から砲撃を受けるという、よもやの事態に意気阻喪。流れは一気に幕府側に、ということになりました。こうした「戦闘行動以外の諸作戦」で信綱は一揆軍を追い詰め、島原の乱を終結させました。
次は慶安の変です。これは所謂、由比正雪の乱ですが、正雪が、私塾を主宰し、若者を多く集めているという噂は江戸市内の一部に流布していました。そのことをたまたま耳にした松平信綱は、「これは将来、ひょっとして反幕府の温床になるかもしれない」と危惧し、予め、自分の息のかかった人物をその塾に塾生として潜り込ませます。この塾は、その後、信綱の危惧通りに反幕府の拠点になるのですが、いわばスパイをその塾に事前に派遣していたのですから、塾の動静は、信綱側には筒抜けになります。結局、その「情報漏れ」「タレコミ」が、由比正雪の乱を失敗に終わらせます。「戦闘以上の打撃」を敵側に与えた事前の警戒、用心。信綱・知恵伊豆の「智恵者」たる所以でしょうか。また、正雪側には槍術宝蔵院流の名手・丸橋中弥という実力者がいました。彼を捕まえるのに、「彼が槍を持っていたのでは、こっちに何人いても捕捉は難しい」と考えた信綱は、中弥の居場所を突き止めたあと、頃を見計らって部下たちに一斉に『火事だあー』と叫ばせます。大人数の一斉の叫び声に驚いた中弥が、「何ごと!火事はどこだ?」と思わず丸腰で現れた処を、「それっ」と大勢で飛びついて確保した、なんて話もあります。こういうことが本当にあったかどうかは分かりませんが、然し、由比正雪の乱がタレコミで事前に露見、失敗に終わったことも、丸橋中弥は捕まって鈴ヶ森で処刑されたことも、そして両事件とも、信綱が関わっていたことも歴史的事実です。
信綱はインフラ工事にも辣腕を振るったと、前に書きました。野火止用水がそれです。信綱の実父・大河内久綱が土木工事のプロ・伊奈忠次配下の代官だった関係で、「戦場働き」ではない部分でも歴史に残る働きをしました。この野火止用水は小平市から新座・野火止台地を経て新河岸川に至る全長24㎞の用水路です。信綱が川越藩主の頃、承応4年(1655)に完成しました。それまで、この一帯は、関東ローム層の、乾燥した所謂武蔵野台地がひろがっていた地域でした。全体的に水が少ない地域で、水田耕作は言うに及ばず、飲み水にも難渋する地域でした。それが、この野火止用水の完成で、例えば、志木、新座一帯の水田は大いに潤いましたし、飲み水としても随分長い間、重宝されたのでした。
この用水は、途中、平林寺というお寺を通ります。この平林寺の境内林は武蔵野の面影を残す雑木林として、1968年に国の天然記念物に指定されました。
何故、いま突然、「平林寺の話」をしたかといいますと、実はここに、この、松平伊豆守信綱・知恵伊豆のお墓があるからなのです。それはもちろん、彼が川越藩主だったことと無関係ではありません。同姓の誼もあり、この小稿が本誌最後の、ということもあり、先日、オミクロン対策を万全にしてお詣りしてきました。雲一つない、澄み切った碧空が広がるいい日でした。人は殆どいません。鬱蒼と茂る樹々の間を樹々の香りに染まりながら初めはゆっくり歩を進めましたが、ちょっと、寒かったので後半は若干、急ぎ足になりました。
平林寺は森閑とした、心安らぐ、いいお寺でした。(完)