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【歴史編】「村上武吉」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 あの、戦国ビッグ3に、悉く楯突いた瀬戸内の海の男 戦国武将 村上 武吉

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瀬戸内海は西日本の大動脈である。瀬戸内海があるから太平洋と日本海は結ばれ、都の文物は日本中に広がり、日本とアジア、ヨーロッパは繋がるのである。

天文24年(1555)、当時、中国地方に権勢を振るっていた陶晴賢は、その重要拠点・瀬戸内海を牛耳っていた村上水軍の権益を狙って行動を起こした。

当時、その一帯で陶氏と戦っていた毛利元就も、当然、動く。元就は、或る日、村上水軍にこう囁いた――「一日だけ我々に味方すれば、あなた方の海上での権益を認めよう」――村上水軍はこれに同意する(「陰徳太平記」)。この戦は武吉の活躍で毛利側が勝利し、武吉グループは瀬戸内随一の水軍勢力となった。しかし、武吉は、自分たちはあくまでも自分たちで、決して「毛利派」ではないことを主張する。「海の男」のプライドである。その後、武吉と毛利はケースバイケースで離合集散するが、結局、織田信長を共同敵とすることでこの二者はまた急接近することになる。

「村上武吉」元NHKアナウンサー 松平定知

村上景親 肖像画

「村上武吉の息子で、兄の元吉とともに水軍を率いた」(写真提供:村上水軍博物館)

天下統一を目指す信長は、この時点で、物流の拠点・大坂の地の掌握を狙っていた。そのためには、自分の命令よりも浄土真宗の教義に従順な、石山本願寺勢力を排除しなければならないと心に決めた。信長は本願寺の門徒に、ある日突然、「大坂の石山(現大阪城のある場所)を出て行け」と命令を下すのである。当然のことながら、門徒らは反発する。そこで起きたのが、天正4年(1576)7月13日の第一次木津川口の戦いである。これまで、「両手を合わせて念仏を唱えさえすれば、それだけで極楽に行ける」という教義で門徒を飛躍的に増やしてきたこのグループは、この降って湧いた災難に、その「教義」を「進まば往生極楽、退かば無間地獄」と変えた。「念仏だけ」から「行動」へ――この新スローガンのもと、門徒たちは文字通り必死で戦った。この時、村上水軍は門徒側に味方する。その働きは抜群だった。この戦に武吉は出馬しなかったが、代理参加の、息子・元吉は統制のとれた見事な働きぶりで、あの信長相手に見事に勝利する。しかし、2年後の11月の第二次木津川口の戦いでは、前回の失敗に懲りた信長が、九鬼水軍の協力を得て、何と、火器に強い鋼鉄の舟を浮かべるという作戦に出た結果、村上水軍側の伝家の宝刀・焙烙玉攻撃は全く効かず、加之、信長側が鉄甲船の内部に装備していた大砲を稼働させるに至って、村上水軍側は大惨敗を喫したのだった。

その4年後、信長は本能寺に斃れ秀吉が政権につくが、その「新権力」にも武吉は自分の勢力の伸長目的で「すりよる」ことをしなかった。秀吉の度重なる調略相談にも応じなかった武吉は、秀吉の四国攻めにも同意せず、次第に孤立していく。天正16年7月8日(1588)には、秀吉による「海上賊船禁止令」が発布され、武吉はその違反の罪にも問われてしまい、ついには能島を退去せざるを得なくなるのである。この時、武吉は家督を息子に譲り、水軍の将来を息子に任せた。任せた以上、武吉は一切、口を挟まなかった。息子・元吉は秀吉の傘下に入り、秀吉の要請に応えて朝鮮半島での戦いにも参加する。

その秀吉もやがて死ぬと、その死の2年後に起きた家康・三成の天下分け目の関ヶ原の戦いでは、彼らは、行きがかり上、西軍に与することになる。この「関ヶ原」は家康・東軍の勝利に終わったのはどなたでもご存知だが、その翌日、瀬戸内海であった「もう一つの(海の)関ヶ原」のことを知る人は少ない。ここに、武吉の息子、元吉の姿があった。元吉は、東軍の、伊予・松前城の城主加藤嘉明が「関が原」に出張中の留守を狙って城を攻めた。奮戦の末、一旦は加藤勢を降伏させたが、これは、元吉たちを油断させるために敵方が仕掛けた謀略だった。海上での真っ向勝負には馴れている彼らも、陸上の駆け引き戦略は不得手だった。結局、西軍は返り討ちにあい、元吉は絶命。かくして、「天下分け目の関が原」は「陸も海も」東軍が勝ち、その2年半後、家康は江戸に幕府を開くのである。この幕府は、日本の制海権を完全に掌握するが、息子の元吉を亡くした武吉は、いまさら、と、新権力者・家康にも擦り寄ることをしなかった。それゆえ、やがて、彼らは壊滅する。しかし、壊滅後も旧村上水軍は、朝鮮通信使の警固などもしながら、幕末まで、長州藩の御船手組として江戸時代を生き抜くのである。

慶長9年8月22日(1604.9.15)、武吉は、転居先の周防大島で死んだ。生年不詳のため享年はわからないが70歳台。当時としては長命である。武吉が書き残したものとして、村上水軍の兵法書「村上舟戦要法」が存在するが、これは、日露戦争でバルチック艦隊を撃破した秋山真之参謀のとった「丁字戦法」の参考書だったと言われている。

また武吉は、大山祗神社で、一族の結束を固める為の連歌の会を何度となく催したという記録も残されている。「時の権勢」に臆すること無く、無節操に「勝ち馬」に乗ることもせず、筋を通しながら、荒くれ男たちを束ねて、凛々しく瀬戸内の海を駆け回り、一時代を画した「男臭い」村上武吉は、連歌を嗜む教養人でもあったのである。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。