「しっかり者の千代さん」を表す有名なエピソードとして、皆さんよくご存じの、あの「一豊の名馬購入譚」がある。既述の「矢の一件」から8年後の話―――天正9年。あの、「本能寺」の前の年である。
信長が主催する「馬揃え」という行事の直前の馬市で名馬と遭遇した一豊は、その馬が喉から手が出るほど欲しかったが、いかんせん持ち合わせが足りない。諦めて、家に帰って、そのことを嘆くと、「千代」は「ぜひ、お買いなさいませ。これをお役立て下さい」と自分のお金(1,000万円くらい)をポンと差し出したというあの話である。
その馬を購入できたのは100%、妻のおかげなのだが、それでも一豊は嬉しくてしようがない。加えて、その名馬が「馬揃え」当日、信長の目にとまったことにも感激。あまつさえ、信長から「もののふの嗜み、いとふかし」と絶賛され、もう天にも昇る気持ちだった。これを機に一豊は、信長を支える5人の師団長の一人・秀吉の下に入り、大出世を遂げた、というあの話である。
内助の功の典型話で、それはそれで大変結構なことなのだが、よくもまあ、そう裕福でもない夫婦の妻がそんな大金を隠し持っていたなあという感想をお持ちの方も多かろうと思う。普通の家庭の主婦が、それが嫁入りの際の持参金にせよ、へそくりにせよ、夫に隠して、一つ屋根の下でそんな大金を自分の裁量で隠し持っていることのできる社会のありように驚かれた方も多かろうと思う。
この点について、京都橘大学元学長で中世女性史がご専門の田端泰子先生は、「戦国の男社会の中で、女は男の付属物」と思われがちだが、実は江戸時代以前の夫婦関係はいま我々が想像する以上にドライで「平等」意識が強く、夫婦は家を護持する共同経営者的感覚が強かったとおっしゃる。つまり、女上位、とまではいかないまでも、「平等意識」はお互いに存在したのだそうだ。
千代のサポートもあって、一豊は順調に出世を果たす。「本能寺」以後、秀吉の幕下で、賤ヶ岳、小牧・長久手の戦で功を上げ、かつて秀吉が建てた長浜城2万石の主になったあとは、掛川5万1千石の城主にもなった。
ところで、長浜城主時代、一豊・千代夫婦は一粒種の娘「与祢」を大地震で亡くす。以後夫婦には子供は出来なかった。千代は「お家のため」と、あと継ぎを作るための「側室」をおくことを一豊に提案するが、一豊は、「俺は生涯、汝一人」と、その提案を拒否したという。そして、「後継ぎ」には捨て子を充てようとした。二人は長浜城下に捨てられていた子を大切に育てる。拾った子だからと、「拾」と名付けられたその子は、しかし、長じて、出家の道を選択し、結局は、一豊の弟の子を養子にして「後継」とした。こうして、生涯、「千代・命」を貫いた一豊だったが、一豊の死後、千代は、「拾」の寺である妙心寺近くに住み、末期の水は、その「拾(湘南宗化和尚)」に取ってもらったという。
さあ、時は移る。信長は死に、秀吉も、前田利家も死んだ。次の天下を睨んだ「関が原」の「前夜」。慶長5年(1600)7月24日。当時、会津の上杉景勝討伐のため、京の都を出て、栃木県小山付近にいた家康のもとに未開封の文箱が届いた。
その文箱は、家康に同道している一豊から届けられたものだが、もとはといえば、千代だけが留守番をしている一豊の留守宅に送られてきたものだった。届けられたこの文箱を見て、この時期に留守宅に届けられた以上、これは「三成サイド」からのもので、その内容は西軍に味方してくれという依頼文に違いないと、千代は直感する。この時、既に千代は、「これからの日本は家康!」と見切っていた。「夫は、いま、家康と行動を共にしている。家康と夫の関係をより親密にさせる道具として、この文箱を利用しよう」―――賢婦人・千代はそう思い、すぐさま行動に出る。彼女は最も信頼を寄せる、フットワークの軽い田中孫作という家来を呼んだ。「どんな困難があろうとも、この文箱を、関東にいる一豊に必ず渡すように」ときっぱりと命令する。
そして、予め、一豊とは事前に打ちあわせ済みだったのだろう、他人に気づかれない二人だけの連絡方法として、重要ミッションを書いた紙を縒りにして使者(田中孫作)の傘の緒に編み込んで出発させた。その紙に千代は、「この文箱を開封せぬまま、家康殿にお届けなさいますように!」と「貴男の居城の掛川城を、いますぐ、無条件に家康殿にお差し出しなさいませ」と書いた。
一豊は千代の指示通りにした。未開封の文箱を開けた家康の目に飛び込んできたのは、千代の読み通り、三成側の、増田、長束といった五奉行仲間からの「西軍への協力要請」だった。それに加えて「掛川城の無条件の明け渡し提案」―――家康の一豊への信頼感は揺るぎようもなく高まった。仕上げは「小山評定」。この席で、一豊は福島正則に続いて家康とともに戦うことを決意表明、それが流れとなって、東軍の大部分はそのまま、反三成軍となった。
一豊は土佐24万石の大大名に抜擢され、以後、土佐の山内家は江戸時代をまるまる生きる。幕末の四賢公の一人、山内容堂はその子孫である。
時流の行方を冷静に見据えて、的を外すことなく、その都度、的確な指示を出す千代は古今を代表する賢婦人だが、その千代を選び、生涯、彼女と暮らした一豊もまた、「賢夫」であった。