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【歴史編】「宮本武蔵:哲人武蔵編/後編」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「宮本武蔵:哲人武蔵編/後編」編

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小次郎は当時、細川家に剣術指南として仕官していた。細川と家康の両者の関係は良好で、関ヶ原での功績で細川家はそれまでの18万石から40万石に加増されている。細川家は十分に新しい武士を召し抱えられる財力が出来たし、その大勢の武士たちの剣術指南役をおくことも、家康公認で出来た。しかも両者のテリトリーは豊前と江戸と、遠く離れているから日常の些末事は、お互いにその都度ツーカーといく距離ではない。これまで武芸・武技一辺倒の生活で、「世間を読めない」武蔵は、「ひょっとしたら…」の思いがあったかもしれぬ。武蔵は、小次郎に勝ったら、ひょっとしたら細川家は自分を小次郎の後任として雇ってくれるのではないか―――もちろん武芸者としてのプライドが第一だったが、武蔵はそんなこともあって、小次郎との対戦を熱望し、実現し、そして勝った。

小次郎の、あの有名な90cmの物干し棹(長刀)は、武蔵の頭に巻いた鉢巻きをかすめて空を斬った。その長刀よりさらに30センチも長い樫の櫂(木刀)は、一撃で小次郎の眉間を割った。武蔵の完勝だった。しかし、現実は、この決闘勝利にも拘らず、決着のあと、細川家だけでなく、どこからも「剣術指南役」や「仕官の話」はなかったのである。「なぜ?」の思いで、武蔵はまたもや放浪の旅に出る。時代が武蔵を見放した、と思うほかはない。もはや「毎日が戦争」の戦国の世ではなかったことに、武蔵だけは気が付いていなかった。いつ起こるかもしれぬ戦の場で、明日死ぬかもしれぬという恐怖感が人の行動を左右する日々ではなくなっていた。一定のルールと組織で世の中が動く、一種の管理社会になりつつあった。

つまり、武蔵のような人間にとって、最も不得手とする時代が来てしまった。すべては運命だった。そして、そのことを誰よりも深く感得したのは武蔵だった。「自分は今まで、何のために戦ってきたのか、何のために勝ってきたのか」。武蔵が死の直前まで筆を執っていた「五輪書」の序文に、彼の半生を振り返って、『30を越えてあとを思ひ見るに至った』と記した箇所がある。剣豪「剣の達人・武蔵」から、思想家「剣の哲人・武蔵」誕生の瞬間であった。

武蔵が40歳になった頃、生涯独身だった彼は養子をとった。伊織という名のこの養子に、武蔵は自分とは全く違う人生を歩ませた。武蔵は父から、日々、剣士としての厳しい鍛錬を受けていたが、結局、それが何だったのかと激しく自問する「その後の人生」だった。だから伊織には「武芸・武技」ではなく「学問」を身に着けさせようと思った。伊織はその父の期待に応えた。15歳で武蔵の手を離れた伊織は、九州の大名・小笠原家の家臣となり、その後も順調に出世を続け、19歳で藩の重役の執政に栄進、やがて家老にまで取り立てられる。武蔵が死んだ9年後、伊織が、その任地・小倉に、父・武蔵の事蹟を記した碑を建立する。それが武蔵研究には欠かせない前出の「小倉碑文」なのだが、自分とは全く違う生き方を生き、成功している養子を、生前、武蔵は自分の半生と比較しつつ、陰ながら目を細めてみていたことだろう。

息つく暇もなく生きてきたこれまでの自分の半生を思うとき、それは、武蔵に訪れた人生初の「安らぎ」だったかもしれない。そして、伊織が武蔵の下を離れて10年ちょっと経った寛永14年(1837)、伊織の仕官先の小笠原家から思いがけない連絡が武蔵に届く。「いま、島原で幕府に対する反乱が起きているので参陣してほしい。息子も一緒。」というのである。いまや小笠原家の執政になっている伊織と一緒に戦える―――自分の「決闘人生」はやめたけれども、武芸・武技についての熱が冷めたわけではない。再び、自分の腕を生かすことが出来る、しかも、息子と一緒に!

武蔵は勇躍、その島原の地に向かった。武蔵個人は戦場で足を負傷して不本意な結果に終わった戦いだったが、乱は鎮定された。そんなこともあって、その後、九州に落ち着いた武蔵は、ある日、熊本の細川家から招請を受ける。無論、武蔵に断る論理はない。以後、武蔵は藩主・忠利の剣術指南の傍ら、書画に打ち込んだ。画の代表作は、墨画・枯木鳴鵙図。書物で有名なのが「五輪書」である。「五輪書」は細川家に仕官して間もないころ、主君・忠利から、「これまで会得した剣の極意を書物としてまとめよ」との要請で書いた「兵法35箇条」の完成4年後の、寛永20年(1643)に起稿、脱稿は、亡くなる一週間前であった。

それまで細川領内の山中の洞窟で、鬼神が乗り移ったような形相で執筆していた武蔵が、細川家家老の嘆願を受け入れ、ようやく市内に居を移した直後の死だった。この本は「剣の技術書」ではない。人の生き方の極意を、地・水・火・風・空の5巻に分けて説いた「哲学書」である。昭和49年(1974)、この本はアメリカでベストセラーとなる。

日本の「達人武蔵」は、世界の「哲人武蔵」となった。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。