やがて「公儀呉服商」の地位も得て、その商人の座を盤石なものにしますが、実は、この茶屋家の先祖は「呉服屋さん」ではありませんでした。この初代清延の父は『元・武士』。信濃国の守護・小笠原永時の家臣でした。名を、中島明延といいます。詳しい事情は不明ですが、彼の時代に武士を廃業。静岡大学の小和田哲男先生によりますと、この明延は16世紀の半ばに京都に出て、呉服商を始めた、とのこと。茶屋さんは、もとは中島さんでした。「茶屋」という呼称は、室町幕府第13代将軍足利義輝がしばしば京都の中島明延邸に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する、というのです。この屋敷は京都・中京区の蛸薬師にあり、「茶屋」と屋号をつけた明延の息子、清延が茶屋家の初代当主になりました。この蛸薬師の屋敷が以後160年にわたって茶屋家の本拠となり隆盛を極めます。清延以来、当主は代々「四郎次郎」を襲名するのが習わしでした。
既述のように、関ヶ原の合戦の4年前に清延が死んだあと、家を継いだのは清延の長男清忠でした。彼は秀吉の死後、家康の絶大な力を背景に京阪神の物流の取締役などに就任します。しかし彼は、徳川幕府開府の年、1603年に病死します。
清忠の急死で跡を継いだのが、清忠の弟・清次でした。この三代目茶屋四郎次郎も遣り手でした。彼は、家康の後押しもあって御朱印船貿易の特権を得、ベトナムとの貿易で巨万の富を得ます。茶屋家が、角倉家・後藤家と並んで「京の三長者」と言われたのは、この、清次のころ。そして、この清次が、家康の人生の決定的な場面に居合わせた、「もう一人の」茶屋四郎次郎なのです。
戦乱の世を生き抜き、天下分け目の関ヶ原でも勝ち、勢力天下無双の家康でしたが、より盤石な体制をと、後陽成天皇から、武士社会のトップ・征夷大将軍と、公家社会のトップ・源氏長者の位を同時に授与、という二つの宣旨を同時に受けられるまで、「関ヶ原勝利」から更に2年半、待ちました。満を持して自前の幕府を開いたのが1603年3月。でも自分がその将軍の地位にいたのは僅か2年でした。1605年には三男の秀忠を後継に据え、自分は影響力を保持したまま駿府に隠居し、以後300年近く続く、世界史でも類を見ない「一族支配」の形を整えたのでした。
「待つこと」のできる政治家・家康は、自前の幕府を作った後も、なおそこから12年待って、目の上のたんこぶだった豊臣家を大坂の陣で追い落とし、全く後顧の憂いのない形で、元号も平和の始まりを意味する「元和」に変え、「やれやれ」と、心から安堵の日々を送っていたある日のことでした。
家康は趣味の一つだった鷹狩りに出かけます。元和2年(1616)1月21日のこと。場所は駿府城からほど近い、今の藤枝市のあたりの田中というところでした。ここでの放鷹は、もちろんこの日の重要な目的の一つでしたが、実はこの日は、もう一つ大事な「用事」がありました。それはその放鷹現場の近くの田中城で、ある人物に会うことでした。
その人物こそが、3代目茶屋四郎次郎、清次だったのです。何故、彼と会うのが家康の居城・駿府城ではなく田中城だったのか、そのことに触れた資料はありませんが、私は朱印船貿易の利権絡みの話だったからかな、と思っています。それを裏付ける資料はありませんが、ただ、その日の夜、清次と夕食を摂った後、家康がにわかに腹痛を訴えたということは、「東武実録」という記録にあります。家康はその日、すぐに侍医の片山宗哲の診察を受け、投薬で一応は回復します。でも、なぜかそのまま田中城に逗留して、駿府城に戻ったのは24日のことでした。
ただ、家康の体調は、この日以降、どうもすっきりしません。彼はその時、今でいう後期高齢者でしたから、数年前と比べて体力全般がすぐれないのは仕方がないとは思っていました。家康は大変な「健康オタク」で、自分で調剤などをすることが多く、侍医の薬よりも家康自身が調合した薬を飲んでいたことも、「不調」の原因だったかもしれません。見舞いに駆けつけた秀忠は、そのことを目撃して侍医の片山に、「(侍医の)自分の出す薬をお飲みください」と言わせようとします。当の片山侍医は気が進みませんが、でも天下の(2代)将軍様の命令だからと恐る恐る申し出ます。と、案の定、家康は激高して、即刻、片山侍医は免職、信濃に配流されます。そんなこんながあって、体調は一向に良くなりません。
家康は、「あの時、清次は、面白いものを食わせてくれた、な。」とあの日のことを思い出します。「榧の油で揚げた鯛の天ぷら。あれはうまかった。でも、ちと、食い過ぎたか。」と自分を無理やり納得させるのでした。巷間言われている「天下人・家康の死の因は天ぷら」説は、こういう状況で生まれました。
結局家康は、その一か月後、元和2年の4月17日に死去するのですが、その天ぷら夕食に相伴した茶屋四郎次郎3代目は、家康の死の6年後、38歳でこの世を去ります。その後の茶屋家は、例えば鎖国令で御朱印船貿易特権が無くなるといった風に、往年の勢いをだんだんに失って行き、明治維新後間もなく、廃業、ということになりました。