日比谷公園内3図書館「関東大震災100年企画展」の広報連携
図書館つれづれ [第117回]
2024年2月

執筆者:ライブラリーコーディネーター
    高野 一枝(たかの かずえ)氏

はじめに

都内日比谷公園の中には3つの図書館があります。関東大震災の復興のシンボルともなった市政会館の「後藤・安田記念 東京都市研究所 市政専門図書館」、東京都公園協会の「みどりの図書館東京グリーンアーカイブス」、そして、真ん中にあるのが都立日比谷図書館を継承した「千代田区立日比谷図書文化館」です。

2023年は、10万人以上の死者・行方不明者を出した関東大震災から100年をきっかけに、あちこちで震災企画展が開催されました。図書館ができた背景や運営主体も異なるこの3館は、個人的なお付き合いはあっても、今まで3館で共同して何かをすることはなかったそうです。それが、企画も会期も開館時間も開館曜日もバラバラだけど、広報連携ということで共同チラシを作りました。こころはひとつ、「100年前に起こったことを伝え、未来につなげていこう、もしもの時に活かして備えよう」という3館の案内チラシに誘われて、企画展を見てきました。今回はその報告です。

後藤・安田記念 東京都市研究所 市政専門図書館(注1)

市政専門図書館は、後藤新平が設立基盤となった東京市政調査会の市政会館の中にあり、都市問題・地方自治に関する専門図書館です。関東大震災の前年まで東京市長だった後藤新平は、大震災直後に内務大臣兼復興院総裁として、復興震災の陣頭指揮をとっていました。企画展の主な展示は地下1階にありました。各避難所には「訪ね人係」コーナーが設けられ、財団と帝国大学救護班の学生ら約100名によって、避難者の元住所や年齢などを調べて個人ごとのカードを作り、安否確認に役立てました。この提灯を目当てに、多くの人が大事な人を探していた風景がよぎりました。

2022年12月に書庫から新しく見つかった幻の地下鉄計画は、関東大震災が発生してからわずか2カ月後に作られていました。地下鉄計画「第一号図」、「第二号図」、「第三号図」と、何度も案を提出していた様子がうかがえます。後藤の復興計画は地下鉄のほかに幹線道路や病院に公園など多岐にわたり費用は膨大だったため、地下鉄計画の必要性を説く声はありましたが、その計画は早期に外されました。東京市が予算不足で実現できなかった地下鉄は、4年後の1927年(昭和2年)に、東京地下鉄道株式会社により浅草~上野間で開通し、その後、現在の東京メトロ銀座線となりました。

東京の東側に被害が集中したため、東京西部の郊外人口が増え、東京市は隣接する5郡を併合します。そして、路面電車を含めた道路の整備や、郊外の私鉄づくりへとつながっていくのが、資料から読み取れました。道路地図を前に友人と、「環状2号線の最後の開通区間である虎ノ門-築地間のトンネルを探検しよう」と盛り上がりました。

震災前、都内には196校の小学校があり、木造のため117校が焼失しました。震災後に建てられた小学校はすべて不燃性のコンクリートで再建され、「復興小学校」と名付けられました。多くは公園が隣接されているのも特徴。現在4校が現存し、実際に校舎として使われているのは「泰明小学校」「常盤小学校」だけだそうです。

病院事業では、臨時救療所や外来診療所を設置したほか、多数の救護班を各所へ派遣しました。結核治療も兼ねていた復興5大病院(広尾、大塚、大久保、深川、駒込)は、現在も都立病院として継続しています。横網町の旧安田邸跡に建てられた同愛記念病院は、アメリカ合衆国から送られた義援金が使われて開設したのだそうな。

復興社会事業の一環に、「授産場」というのを見つけました。てっきり赤ちゃんの出産に関わる場所かと思いきや、授産場は、区内に居住する一般就労困難な高齢者の方が働く施設のこと。今でも授産場という言葉が生きていました。作業を通じて、健康的でいきがいのある生活を送ることを目的としているそうです。まだ各地にあるのですね。初めて知りました。

先日読んだ本に、「震災直後に土建屋がすぐに『復興』を掲げているのはけしからぬ。まずは人命と生活優先」という文がありました。確かにそれも大切だけど、一面焼け野原になったからこそできた英断も必要だったのかなあと感じました。もし、地下鉄構想が実現していれば、今のような深い深い地下鉄でなくてすんだかもしれません。市政専門図書館は、関東大震災の復興に関する資料が豊富です。デジタルアーカイブ「関東大震災に関する資料」の画像は、多くの展示会で使用されているそうです。

みどりの図書館東京グリーンアーカイブス(注2)

公園や緑地に関する貴重な古写真、図面、絵葉書等の資料のほか、緑に関する雑誌や図書など約20万点を所蔵する緑の専門図書館です。都内にある文化財庭園や公園の維持管理や緑化推進、河川や水辺の保全等を行う公益財団法人東京都公園協会が運営しています。みどりの図書館は公益事業の一つとして運営されており、その歴史は古く、昭和39年(1964年)に開設された「東京都公園資料館」から始まります。企画展では、震災後の公園の防災や復興に関する情報が多くありました。

震災で一番被害が大きかったのは、現在の横綱町公園にあった陸軍被服廠跡(りくぐんひふくしょうあと)でした。4万人が避難した空き地は、強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻、火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込み3万8千人が亡くなりました。広場は安全だと思い込んでいたのですが、何もない広場には火災を防ぐ手立てはなく、震災をきっかけに公園の緑や街路樹の必要性が見直されました。

震災後、国の計画により3カ所の大公園(浜町公園、隅田公園、錦糸公園)と、東京市の計画による52カ所の小公園が設置されました。企画展では、公園の詳細な図面や当時の日比谷公園周辺の写真などを見ることができました。デジタルアーカイブは、ホームページの「資料検索」から公園名や庭園名で検索すると、震災で倒壊した日比谷公園内の小音楽堂や、避難者バラックの写真など、図面、絵葉書、錦絵が画像付きで公開されています。関東大震災のブックリストは、今はパンフレット資料のみですが、今後は写真等も掲載予定だそうです。防災公園内に設置されている避難者用のトイレや食品の備蓄にAEDなどは、公園協会が管理しているのも初めて知りました。

被服廠跡にできた東京都復興記念館は(注3)は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年(1931年)に建てられました。大震災の被害、救援、復興を表す遺品や被災物、絵画、写真、図表などの豊富な情報があり、そちらのパネルを借りて、本所区をはじめ京橋区などの火の経路を示した被災地図や被災者写真が展示されていました。関連施設との連携で、情報がさらに充実していました。

千代田区立日比谷図書文化館(注4)

4階から1階までの展示は見ごたえありました。4階に展示している市政会館・日比谷公会堂の建築模型を作られた今村仁美さんに、たまたまお会いすることができました。この建築模型を作るために、設計図はもとより、建物の屋上にあがり細部まで見学され、当時の生活・文化・人を感じながら作成したそうです。窓一つ作るだけで数時間もかかるとのこと。建物の内部までリアルなのに納得しました。

3階のエレベーターホールでは、色々な視点からの震災情報を展示していました。

壁に展示しているのは、写真ではなく絵葉書でした。震災の人々の生活を「震災絵葉書」として売り出すしたたかな根性に、まず驚きました。とはいえ、ラジオもテレビもない時代、絵葉書は当時の被害状況を全国に知らせる数少ない手段だったのだそうです。今の生活環境との違いを、思い込みで済ませるところでした。よく見ると、帝国ホテル120年史の写真と展示している絵葉書は同じものだけれど、左右が逆になっていると説明書きがありました。こういうのもなかなか普段は気が付きません。

多くの新聞社は社屋を失ったため活字も焼失しました。かき集められた活字を使い、漢字がなければ「かな」で代用、なければやむを得ず誤字で代用し、一文は長いなど、当時の新聞の特徴も見られました。私的に気になったのは、当時の新聞の告知欄や安否確認の記事の中の「候」文でした。大正時代でも文体に使われていたのですね。あの頃の財閥は、使用人の安否確認だけでなく、遺骨の安置など細かな配慮があったのにも驚かされました。作家の星新一の実父が創業した星製薬会社から胃腸薬が被災地に配給された記事があり、市政専門図書館の病院事情資料とも重なって読みました。どさくさに紛れての配給米隠匿事件などもあり、人間の強欲はいつの時代も変わらないのだと思いました。

2階には、企画展に関する資料が別置されていて、館内を回遊する工夫がされていました。さらに深く関心を持った人には、関連する日比谷カレッジの案内が幾つか用意されていました。言うのは簡単だけど、年間通してこれらを企画し運営しているのは凄いです。

1階特別展示室は、震災復興の足跡をたどる見ごたえ十分な展示でした。震災で多くの方が家を失いました。警視庁が内務省と協力して羅災民救済のため、避難民の多い公園などに木造バラックを立てた光景などが記録にとどめられています。

復興小学校は教育環境にも特徴があり、理科や唱歌、裁縫などの特別教室が作られました。シャワー室や水洗トイレ、変わったところでは、日光浴室や紫外線浴室がありました。それ以上に驚いたのは、当時の小学校には、御真影や教育勅語を保管する奉安庫や奉安殿が設けられていたことでした。御真影を守り、亡くなった教員もいたと聞き、さらに驚きが増しました。わずか100年前の出来事ですが、教育の違いをまざまざと感じると同時に、教育の大切さも感じました。

震災後に隅田川にかかった6つの橋は、其々に橋の形も建築方法も違います。話は飛びますが、山口県岩国市の錦帯橋は、部位によって年数は違うものの定期的に架け替えられてきました。橋の耐久性もありますが、技術の継承も大きな要素と聞いています。頑丈な橋を作れば、設計図はたとえ残っていても、その技術を人から人へつないでいくのは難しいのかなあとも感じました。

展示は前期と後期で分かれていたので、後日、後期の展示へも伺ってきました。1階の隅田川にかかる橋の展示は、看板建築に入れ替わっていました。看板建築とは、関東大震災後、鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない中小規模クラスの商店などが、かつての伝統的な町屋に代わる洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居のことだそうです。今も東京には看板建築が幾つか残っています。その模型がまたとてもリアルにできていました。そのほかの展示で目についたのは「生まれかわった霞が関」と称した展示です。震災後、霞が関に集中させた庁舎は、ただ集中させただけでなく、風格のある建物から現代に通じる親しみやすさを追求するようになったのも大きな変化だったそうです。

見学を終えて

どの図書館も、その図書館のミッションに関する情報が満載でした。3館通じて感じたことは、記録に残すことの大切さです。各々の図書館のデジタルアーカイブのほかに、国立国会図書館デジタルアーカイブス(注5)の充実も見逃せません。

図書館つれづれ

執筆者:ライブラリーコーディネーター
高野 一枝(たかの かずえ)氏

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