2024年6月30日から3泊4日の鹿児島県喜界島の旅は、友人の米田真由美さんの親戚のお宅を拠点に、手厚いエスコートで実現しました。喜界島(注1)は奄美大島から東に25キロに位置するサンゴ礁でできた島です。今も年間約2mmずつ隆起していて、ハブはいません。人口は6,300人。中学校図書館で見つけた平成12年発行の喜界町誌によると、喜界島の名称は、998年の日本紀略出典の貴駕島に始まり、貴賀之島、貴海島、鬼海島、鬼界島、池蘇島、奇界島などなど、随分と変遷しているのがわかります。全て出典が明記されていて、サンゴ礁でできた島なのに、歴史はとても古いのです。
もちろん図書館見学もしましたが、島の産業である黒糖焼酎もサトウキビも外せないということで、今回は、まるごと喜界島のダイジェスト版で紹介します。
喜界町図書館は、喜界町出身の実業家長嶋公佑氏が「本を読むことで視野の広い心豊かな人間に成長してほしい」と、昭和59年、図書購入費を含め総工費2億1,800万で建設・寄贈し、昭和60年4月に開館しました。開館30周年を記念して図書館前に頌徳碑が建立されましたが、図書館の中にもリスペクトの想いが詰まっていました。
島尾敏雄氏に関する資料と共に、最近のテーマ本や本屋大賞などが展示されていて、Wi-Fi環境も整っています。
でも、やっぱり皆さんが気になったのは充実した郷土資料室。同人誌などもあって、司書の皆さんはここからなかなか出てこない。同行者の立命館大学非常勤講師(メディア・図書館学)のお酒博士である小野田美都江さんは、お酒の歴史が気になるものの、食の歴史関係の本にもそれらに関する記事は見当たりません。翌日の酒造会社の話で、酒造りは御法度だったからおおっぴらにできなかったとわかって納得しました。貴重な郷土資料は公民館図書室時代にコツコツと集められました(余談ですが、当時働いていた方が最近亡くなり、米田さんは今の図書館に至るまでの記録の必要性を感じています)。何故だか北海道立アイヌ文化研究センターから寄贈された「喜界島各村地理表」。翌日伺った中学校の校長室にも大きな熊の彫り物が幾つかあって、北海道とのつながりはいまだに謎だそうです。
当時、郷土史研究会の事務局などもされていた得本拓氏は、図書館関係の研修会などで上京するときは、必ず島バナナを持参したことから「バナナ大使」と慕われていて、私達も今回お会いすることができました。
人口減少による統廃合で、小学校は8校から2校に、中学校は3校から1校になりました。そのうちのひとつである喜界小学校を訪問しました。図書館は、国語の授業などで子どもたちが利用できるよう椅子と机が配置されています。図書館に勤務している方は、ご主人と縁があって島に来て15年。文化の違いや風習に戸惑うことばかりだったそうです。教室の壁には前任者であるウタシャ(唄者)の力作「シマ唄の地図」がありました。島の文化が何気なく引き継がれていきます。
棚のPOPは子どもたちの手作りで、学級委員が昼休みに当番で貸出をします。喜界島・奄美大島の本や、私達が役場で購入した料理本『子どもに伝えよう!“島じゅうり”おいしいたのしい喜界島』がありました。喜界島では料理を「じゅうり」というのだそうな。図書館を出て階段を降りたところに、PTAの本棚がありました。
中学校は、玄関の靴箱や壁、階段とあちらこちらで中学生力作のポスターが出迎えてくれました。中学生の柔らかいアタマが羨ましい。小学校同様に奄美や喜界島に関する郷土資料が揃っています。珊瑚や魚の図鑑なども喜界島ならではの選書です。喜界町図書館ではスペースの問題で断っていた県立奄美図書館からの配送本を、今回初めて中学校に定期的に送ってもらうことにしました。
私達をエスコートしてくれた米田さんは、この4月に中学校図書館へ異動したばかりの会計年度任用職員。同じ図書館といえども、今までいた町立図書館と違って、戸惑うことも多いそうです。
彼女の肩書は、「図書整理員」で、学校司書ではありません。指定管理会社の契約社員である友人によると、学校図書館法に明記されている学校司書に関する条文、第六条「学校図書館の職務に従事する職員を置くよう努めなければならない。」の職員には、指定管理会社で働く人や会計年度任用職員は当てはまらないのではとのこと。各自治体によって仕様書で決められた名称で業務を行っているそうで、「図書整理員」や「学校図書館支援員」などとも呼ばれているそうです。
今回は喜界高校図書館には行けませんでしたが、正門の綺麗に刈り上げたガジュマルの垣根は意表を突きました。
喜界島では各々の集落を「シマ」と呼び、方言のアクセントなどにも違いがあるようです。シマごとに神社があり、その数は48カ所。半数は保食神社だそうな。島の行事は旧暦でおこなわれるため、役場では、「島ごよみ」喜界町行事カレンダーを配布しています。その表紙に、「どこに行っても絶景」と謳われるほど、巨大なガジュマル、喜界島ジオパーク構想の目玉である段丘、サトウキビ畑の一本道、島で一番高い標高約200mの百之台国定公園からの展望など、観光地が点在します。
食べ物も島特有のものがありました。牛乳だと思って買った「花田のミキ」は発酵食品でした。甘酒のようなもので、語源は「御神酒」。危うく朝のコーヒーに入れるところでした。道端で何度か遭遇したヤギは食用で、夜は島料理で盛り上がり、ヤギや夜光貝の刺身も美味しくいただきました。役場で買い求めた島じゅうり本を購入するための手続きから、図書館等公衆送信サービス(注3)に話が飛び火して、図書館の皆さんの会計処理の大変さを少しだけ理解したのはおまけです。
ランチの時に聞いた、島特有の風習である「風葬」は、「土葬」と異なり、遺体が風化した後にお骨を集めて埋葬をします。3年間ほど埋葬した後に掘り起こして先祖代々のお墓に納骨するケースもあるとのこと。こんな風習が昭和40年代まであったと聞き、埋蔵文化センターや歴史民俗資料館にも立ち寄りました。
ほかにも、島の文化や産業に関わる幾つかを紹介します。
小学校の廃校跡にある日本で唯一のサンゴ礁研究に特化した研究所です。「100年後に残す」を理念とし、小中高校生に向けた「KIKAI college(キカイ カレッジ)」や「サイエンスキャンプ」などを実施して、次世代のグローバルリーダーの育成と、サンゴ礁と社会を結ぶプラットフォームとしての役割を担い活動しています。町の図書館とも一度コラボをしたことがあるそうです。
ちょうど珊瑚の産卵期ということで、珊瑚の赤ちゃんを見ることができました。虫眼鏡で見ても1~2mmですが、動いているのを見ると、珊瑚はやはり動物だと実感しました。
島内には黒糖焼酎の製造会社が2軒あり、どちらも100年近い歴史があります。朝日酒造(注5)に、喜界島酒造(注6)と、ともに案内いただき、もちろん試飲もしっかりさせていただきました。
黒糖焼酎の原料はサトウキビ。もともと黒糖は薩摩藩の重要な財源だったから、焼酎の原料に使うことは固く禁じられていて、違反者は厳しく罰せられていました。戦後、奄美群島は沖縄と同じくアメリカ軍の占領下となり、黒糖焼酎の製造が正式に認められました。なんだか皮肉な話ですね。使われていた主な原料は黒糖とソテツデンプン。ところが、昭和28年に本土復帰となり、黒糖を原料とした蒸留酒は焼酎より高い酒税が課せられることになったのです。
陳情の結果、焼酎と同じように米麹を使うこと、サトウキビの黒糖焼酎は国内では奄美諸島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島)でのみを条件に許可されました。黒糖焼酎は、適用される酒税法が、日本→アメリカ→日本という変遷をたどり、今に至ったというわけです。
製造方法は、どちらもおおむね同じです。
原料米→洗米・蒸米→製麹→一次仕込み→黒糖溶解→二次仕込み→蒸留→貯蔵→瓶詰
の過程で造られます。
黒糖焼酎は、「カロリーが高い、糖が入っている」という誤解を受けがちですが、蒸留酒であるため、実は糖分ゼロのお酒です。甕やタンクはみんな同じに見えるけど、それぞれ満タン時の量や製造年月日が記されています。
お酒の呼び名も変遷していました。年代別に見てみると、昭和30年台後半までは「泡盛」、昭和40年後半までは「黒糖酒」として販売されていて、「黒糖焼酎」が根付いたのは昭和50年以降から。ラベルと中身の内容が違っていても気にならない長閑な時代がありました。
それぞれの酒造会社が、蒸留時間や温度や仕込み時間を変えたりして独自の工夫でお酒を造り、伝統を守りながら新しい道を模索しています。朝日酒造では、「黒糖焼酎を通して喜界島の全てを感じてほしい」という願いを込め、1999年から自社農園で有機サトウキビを栽培しています。一方の喜界島酒造では、2016年から珊瑚の海でお酒を熟成させる試行錯誤を続けています。
お二人の黒糖焼酎への愛をたっぷり感じた夜は、島料理を食べながら飲みながら、お酒博士である小野田さんのお酒の講義を聴きました。
お酒には4つの特性があるということ
日本ではお酒は20歳になってからですが、デンマークでは15歳の少年少女の酔っ払いが多いこと。昔のお酒の初体験は新年や親せきが集まったとき親から勧められた経験が多いという話や、今の若い人たちのお酒離れなど、さすが博士の話でした。真由美さんのご主人が熱心に聴き、質問していたのが印象的でした。後日、信也氏が町会議員と聞き、納得しました。喜界島では酒造は大きな産業です。若い人たちのお酒離れは見過ごせない話題でもあったのです。
喜界島には河川がなく、人々は湧水を利用して生活を支えてきました。地下ダムは、地下水となって浸透し海に流出していた水を、地下に巨大なプールをつくり水資源とし、スプリンクラーでサトウキビ畑に灌漑(かんがい)するという珍しい仕組みなのです。
※ 喜界島ホームページより抜粋
1992年(平成4年)度から1993年(平成5年)度に実施された「国営喜界土地改良事業」によって整備され、町の保護蝶である「オオゴマダラ」の生息地を守るために、地下にトンネルを掘り、トンネル内からの止水壁工事という特殊な工法により工事が行われました。サトウキビ畑はスプリンクラー方式、野菜類は点滴のかんがいを利用しています。管理施設で制御されているので、サトウキビ畑に勝手に水がまかれていました。地下ダムは通年温度が一定ということで、黒糖焼酎の保存にも一役買っているようです。
町の保護蝶である「オオゴマダラ」を見学した農産物加工センター内にある観光物産協会の田邉大智事務局長は、地域おこし協力隊として島にきて、島のとりこになった居残り組です。知れば知るほど島の魅力にはまっていくのだそうな。
この旅で知り合った喜界島の皆さんの喜界島愛に、「生きるということ」「仕事をするということ」に、どんな意味があるのか考えさせられました。
毎日を自然と共に暮らし、贅沢はできないけど、食べ物にも不自由せず、いつも気の合う仲間が傍にいる。一方で、都会では、人間関係に疲弊しながら仕事に翻弄される毎日を送る人もいます。
素敵な夕日を見ながら、喜界島は「足るを知る」を教えてくれる場所なのかもと思ったりしました。